暗闇にぼうっとたたずむ姿に音はなく、さわさわと風が木々を揺らすのに、その姿は揺れもしない。森羅万象ですらその姿に触れること 叶わずといった風に、ただぼんやりとそこに佇んでいるのである。
境界が曖昧だ――――
この世とあの世。現と幻が合わさり、重なったその際に立つように、見る者を不安にさせる曖昧さ。
そのくせその白きかんばせは、ぞっとするほど美しく、まるで鬼のようである。
桜色の唇と煌々と輝く碧の瞳だけが浮きだって、目が離せない。
これが常世姫――――
半兵衛は声も出せぬまま、閉じた口の中でごくりと唾を飲み込んだ。
舞宵 01
遠くに響く夜襲の声を聞いて、半兵衛はふむと腕を組んだ。喚声は驚愕の声に、そして計にはまったのは己の方だと気付き、混乱の声に変わる。
敵の夜襲を逆手に取った伏兵である。
かがり火を焚いた空の陣を突いた途端、四方を騎馬に囲まれて、さぞかし現場は混乱を極めただろう。
「お手柄だね」
背後に控える戦装束の少女を振り返ると、娘は、
「恐れ入ります」
と控えめに頭を下げた。
人形のような固い表情。褒められた時くらい笑えばいいのに、と半兵衛は胸中で独りごちた。
娘の名はと言う。
官兵衛の配下で、軍師見習いとして紹介を受けた。が、の仕事は策を練ることよりも、索敵に重きが置かれている。
それは忍びを放って潜伏させるのではなく、自らの目で視るのである。
色素の薄い白面に輝く、碧の双眸。これこそがの能力である。
千里の彼方も見通す常世の瞳――――俗に言う千里眼をは有していたのだった。
此度の夜襲も、忍びの索敵よりも早くがその目で危険を報せた。半兵衛はその報告を受け、策を逆手に取る事にしたのである。
「さて、と。そろそろ官兵衛殿の所へ戻ろうか」
計略の成功を見届け、半兵衛は馬首を翻した。もそれに従い、半兵衛のすぐ後ろに付いて馬を走らせる。
闇を駆ける二頭の馬が、本陣の松明を目指し疾走する。
と、ふいにが半兵衛の名を呼んだ。
「竹中殿、前方に」
言ったかと思うと、は懐の短刀をすらりと抜き、馬を加速させた。
半兵衛が目を凝らすと、前方に槍を構える小隊が見えた。は小柄な身体をさらに屈ませ風に乗るように馬を走らせると、小隊へ飛び込みすれ違い様に敵兵を蹴散らした。
暗闇の中に銀の閃光が走ったかと思うと、喉笛を切られた敵兵がどうっと地面に倒れる。
半兵衛はぴゅう、と口笛を鳴らした。
「やるね」
短刀の一閃だけではない。袖口に隠した飛刀が闇を縫って飛来したのだった。
わずか一瞬の内に敵兵を殲滅したその手腕を半兵衛は関心すると共に、いささか呆れもしていた。
見た目で人を判断するなとは己の言であるが、斯様な娘が戦えるのかとを戦場に伴うと聞いた時には疑ったものである。軽い気持ちで大丈夫なの、と尋ねた半兵衛に、は人形の顔を向けて言った。
「人を殺めるのを厭うて、何が戦でございましょう」
まったくその通りではあるが、年頃の娘の言葉としてはいささか可愛げを欠いている。
「ねえ、っていつもああなの?」
密かに官兵衛に耳打ちしたが、この無感動な軍師は何も感じないのか、
「何か不足か」
と答えた。
まったくもって、師弟そろって感情というものがごっそり抜け落ちている。
本陣に戻ったは官兵衛へと報告を済ませ、再び索敵の仕事へと戻った。
千里眼を持つならばどこで視ても変わらぬようなものだが、集中するためかできるだけ人気のない所を選ぶ。
陣幕の裏手の木立に紛れ、瞳に力を込める。すると星の瞬きのような輝きが双眸に宿り、に遥か彼方を見せるのである。
本陣を中心に半径五里程度の距離を確認し、は小さくため息を付いた。
はぱちりと一瞬きすると、碧の瞳をその瞼の裏に隠した。玉のような輝きは失われ、鳶色の瞳が姿を現す。
と――――
「何か御用でございますか、竹中殿」
振り返らず問いかけると、背後で人影がぴたりと足を止めた。
抜き足で近づいて来た半兵衛だった。
「あちゃ〜、やっぱバレてたか」
驚かそうと思ったのに、と悪戯っぽい顔で笑う。
千里眼を持つ自分を驚かすなど無理だと知りつつ、そう答える様はどこか演技じみているとは思った。
知らぬ顔の半兵衛。自分や官兵衛は表情のない人間だが、この男は表情を作りつつ人を騙す、とは己の人物評を思い出す。
「わたくしに何か?」
振り返り再び尋ねると、半兵衛はう〜ん、と言いにくそうに口ごもった。
が怪訝な表情で眉根を寄せると、そういう所がねぇ……、と何やらぶつぶつ呟いている。
「用がないのでしたら、わたくしはこれで……」
「わー、待った、待った。夕飯。食べてないと思って」
そうして笹の葉で包んだ握り飯と、竹筒の水筒を差し出した。
一瞬、何を言われているのか分からなくて、は言葉を忘れた。それから一拍後に、ああ、と小さく呟く。
そういえば物を食べるという事を忘れていた。夕餉どころか、今日は一口も物を口にしていない。
「ありがたく頂戴いたします」
深々と頭を下げるに、半兵衛はぽりぽりと頭を掻いた。そのまま握り飯と水筒を持って去ろうとするに、あのさ、と声をかける。
「まだ何か?」
怪訝な表情で振り返る。
「良かったらちょっと話そうよ。俺たち、お互いの事もまだ良く知らないし」
そう言って、子供か女人がするように小首を傾げてみせる。
半兵衛にとって、それはちょっとした興味でしかなかった。官兵衛の懐刀と呼ばれる娘がどのような信条を心に持ち、どのような気持ちで日々戦に赴くのか聞いてみたいという好奇心だった。
勿論、それは起こり得ぬとは言い切れないが――――もしいずれどこかで、半兵衛が官兵衛と対峙する事があれば、の能力は脅威となる。その万が一をも考えて、の事を知っておきたいという気持ちもあった。
女子供のようだと侮られるのは癪に障るが、半兵衛がこの顔で微笑めばたいていの者は警戒を解く。元より柔和な顔は人の警戒心を解き、いざとなってもこの男ならば如何様にでも撃退できるだろうと、驕りを人に与えるからだ。
は半兵衛の愛想笑いを浮かべた顔をじっと見つめたまま、
「……」
無言で唇を結んでいた。
の無言に、まさかこちらの心の内を読まれたか、と半兵衛は焦ったが、の沈黙には他に理由があった。
は、ありがとうございますと答え、まるでそれが礼儀でもあるかのように、深々と頭を下げた。
「ですが、今日は遠慮させていただきます。まだ、やらなければならない事があるので」
「え、ちょっと待ってよ」
そうして闇の中へ消えようとするに、半兵衛は手を伸ばしかけた。
だが、ひゅっとが右手を横に凪いだかと思うと、その袖下から無数の刃が暗闇に散った。
そして、
「ぐぅっ……」
まるで鳥を射落とすかのように、木々の枝から幾人もの忍びが落ちた。そのどれもが、喉を一突きにされ絶命している。
「まだ……敵の始末が残っていますから」
そう冷たく言い残すと、はもう一度頭を下げ、闇の中へと消えていった。
その手に抱えた笹の包みと竹筒だけが、殺伐とした空気に奇妙な違和感を生み出していた。
end
新シリーズ始まりです。
基本的には「常世の瞳」と同じ設定ですが、基本シリアスと言う事もあり、
こちらのヒロインはちょっと固めです。
他の話より半兵衛と距離があるので、「竹中殿」と呼ばせています。