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 襖の向こうからもれ聞こえる、女のくぐもった喘ぎ声。そして男の荒々しい息遣いに、は眉根をひそめた。
 この薄い襖一枚を隔てて、幾組もの男女が情事に耽っているのだと思うと、奇妙な感覚に襲われた。
 遊郭など――――自分には最も遠い場所だと思っていた。その場所が何のためにあるのか、どういう機能を果たすのか、知らぬわけではなかったが、こうして身体をその渦中に置くと自分の知らぬ未知の世界であると思い知らされる。
 情事の匂いを消すかのように、所構わず焚き染められた香の匂い。
 浮世を忘れようと馬鹿のように繰り広げられるどんちゃん騒ぎ。
 男を誘う嬌声に、己が身を嘆くすすり泣き。
 身体が擦り切れるまで抱かれ、そして果てていく女達の姿を、はこのたった数日のうちにまざまざと目にしていた。
 頭の怪我が治れば、自分もその中の一人になるのだと思うと、背筋が寒くなった。その前になんとか逃げ出さなければならない。
 だが、もし自分が逃げれば、その代わりに攫われた娘達が殺される。
 嘘である可能性は高かったが、完全に否定できない現状では、それは確かにを縛る楔となっていた。




常世の瞳 20





 が下女として働き始めてから三日後の事である。
 店中に響くような怒声に、ははっと顔を上げた。続いて女の悲鳴と、物を壊すような騒音。
 何事かと布団部屋から外に顔を覗かせると、座敷の一つから遊女が床を這って飛び出してきた。その後ろを着物を着崩した男が、刀を片手に追う。
「なんだいありゃあ?」
 と、下女仲間の娘が素っ頓狂な声を上げた。
 痴情のもつれ――――と呼ぶには、いささか剣呑な雰囲気である。
 男は何事かを喚きながら刀をめちゃくちゃに振るった。ぼろぼろに切りつけられた襖が崩れ、遊女がひぃぃっと悲鳴を上げる。
 よくは分からないが、迷惑な客であるのは確かなようだ。
 あまり目立つ行動は取りたくなかったが、あのままでは遊女の命も危うい。
「ちょっと片して来ます」
 は短く告げると、布団部屋から飛び出した。
「あっ、ちょっと、ちゃん!」
 静止の声も聞かずは遊女の前に立ちふさがると、男を見上げた。男もの姿に気付き、手を止める。
「なんだぁ、てめぇは」
 目元が赤く、呂律も回っていない。酒に酔っての暴行かと、は見当をつけた。
「店での刃傷沙汰は困ります。どうぞ刀をしまい、お帰り下さい」
 丁寧に告げたつもりだが、その慇懃さが男の癪に障ったらしい。
「うるせぇ、ガキは引っ込んでろ!」
 男は腕を振り上げると、の頭上に叩き下ろした。
 は一瞬小さくため息をつき、振り上げられた腕を捕まえて力を込めた。
「はっ!」
 勢いを突けると男の腕を強く引き、男の身体を壁に向って投げ飛ばした。逆さまになったまま、何が起こったのか理解できず、男が目をぱちくりと瞬かせる。
「どうぞお帰りを」
 はにっこりと微笑みながら、男の取り落とした刀を振りかぶって、男の顔間近に突き刺した。男は悲鳴を上げて立ち上がると、衣服を整える事も忘れて逃げていった。





 そんな一件の後、は椿の部屋に呼び出されていた。
 椿というのは、を謀った娘の名である。それが本名か偽名かはわからないが、この店の中では、椿は姐さんと呼ばれて一目置かれているようだった。
 下女達の噂に聞くところ、椿は人買いを生業とするこの組織の、頭領の情婦という事らしかった。いつだったか着流しの男が言っていた頭という人物の事だろう。はまだ目にしていなかったが、人攫いから娘達を買い、遊郭に流している悪者どもの首魁である。
「私に何か?」
 が仏頂面で尋ねると、椿はくしゃりと顔を綻ばせて笑った。
「そう邪険にするんじゃないよ。今日はあんたを褒めてやろうと思って呼んだんだから。先の一件、お手柄じゃないのさ」
 はますます仏頂面を作った。
 間違った事をしたとは思わないが、椿に言われると嫌味のように聞こえる。
「それで、話というのは?」
 話を急くと、椿はやれやれと肩をすくめてから口に煙管を含んだ。ふうっと紫煙を吐き出して、
「あんたに別の仕事をやろうと思ってね。その腕っ節の強さを見込んで、うちで用心棒をしないかい?」
 は眉根をひそめた。
「悪人の手伝いをしろと言うの?」
 は椿に向って視線を鋭くしたが、椿はそれを笑みで受け流した。
「そんな風には言ってないさ。ただ先刻の馬鹿みたいな無粋な客や、あんたみたいにうちを探ろうする輩が来た時、追い返してくれればいい。そうすりゃ、客を取らせるのは勘弁してやるよ」
 ははっと鼻を鳴らすと、立ち上がった。
「悪いけど、人攫いの手助けは出来ない。女である私が、女性を売る事なんて出来ないから」
 吐き捨てるように告げると、椿はそうかい、と呟いて唇から煙を吐き出した。
「それじゃあ、仕方ないね。あんたには傷が治り次第、客を取ってもらうよ」
 もう行けとでも言うように、椿は手首を振って見せた。その顔はもうを見ていなかったが――――どこか影を纏って見えたのはの錯覚だろうか。
 だが、はかける言葉もないまま、椿の居室を去った。



end


女だけど意外とフェミニスト。