常世の瞳 05
の病はその後、一両日で完治した。季節の変わり目だから風邪をひいたんですよ、とはあっけらかんとしていたが、そうやって寝込むことは多々あるらしく、ねねは心配そうな顔で色々と世話を焼いていた。
が官兵衛と半兵衛の執務室に顔を出すようになったのは、それからしばらくの事だった。前々からよく出入りはしていたらしい。何をするというわけではないが、二人に茶を淹れたり、部屋を片付けたり、兵書を読みふけったりするのが日課となっている。
年頃の娘が兵書などを読むと言うのも奇妙だが、本人曰く絵巻物を読むより面白いらしい。
「小さい頃から好きでしたから」
とは本人の談で、詳しく聞いたところ、女児に何を与えればいいのかわからなかった官兵衛が、とりあえず孫子を読ませたところ、そのまま兵書を読む趣味が定着してしまったとのことだ。
「私に子守など任せるのが悪い」
とは官兵衛の談である。
事情はどうあれ、軍略好きがこうじてと半兵衛の仲が深まるのに時間はかからなかった。暇さえあれば軍略の話をし、地図を広げて架空の戦の布陣を考える。戯れのようなものだったが、二人のいる場所にはいつも笑いが絶えなかった。
そんなある日の事である。
「あっ、」
の歩みが止まった。隣を歩いていた半兵衛が怪訝そうにの顔を覗き込むと、は通りの向こうをじっと見据えて静止していた。
昼下がりの城下町。官兵衛の遣いで来た二人――――もっとも、半兵衛は軍議をサボるために付いてきただけだが――――が、目的の物を手に入れ、帰途についた時のことである。
「どうしたの?」
問うと、瞬きさえしなかったの瞳が、ぱちりとまぶたを閉じ、ゆっくりと半兵衛を映した。
「なにかあった?」
「あ、ええと…」
問う半兵衛に、は歯切れの悪い返事をする。
そして、
「あっ、えっと――――おねね様! そう、おねね様に用事を頼まれていたんです! 私いかなきゃ」
ぽんと両手を合わせると、ぎこちない動きで回れ右をした。それじゃあ、とそそくさと走り去ろうとしたの肩を、半兵衛はがしりと掴む。
「ねえ……なんか俺に隠してない?」
「え、か、隠す?」
明らかに挙動不審なの態度に、疑いを持たない方が不自然だ。だが、は視線をきょときょとと動かし――――、
「ごめんなさい! 荷物お願いします!」
と、自分の抱えていた風呂敷を半兵衛に押し付け、逃げるように走り去って行った。
は疾走していた。
半兵衛に理由も告げず荷物を押し付けたことが気にかかったが、こればかりは簡単に説明できるものではない。
は大通りからわき道にそれると、足を止めた。そっと裏路地を覗き込むと、旅の行商人らしき男が今まさに荷物を抱えようとしているところだった。
は大きく深呼吸すると、ゆっくりと裏路地へと足を踏み入れ、
「懐の書状をこちらに渡して」
男の首筋に、隠し持っていた短刀の刃を突きつけた。
男は振り向かないまま、ひぃっと小さい悲鳴を上げた。
「な、な、なんでしょう。金目のものなど、私は何も……」
おびえた震える声。
は素早く男の身なりを値踏みした。
小さな行李が二つ、男の肩に垂れ下がっている。背中には使い古した編み笠、足はすりきれた草履だ。
完璧に化けている。だが、にとってそんなものは意味をなさないのだ。
「下手な芝居は無用。二度も同じ事を言わせないで」
短刀の刃をぺたりと首筋につけた。力を入れれば、たやすく男の命を断つ事ができる。
男はご勘弁を、と涙声になった。
「く、国には、家族がいるんです。どうか、これでお助けを…!」
男の身体がくるりと振り返った。身を小さくさせて、薄っぺらい財布を差し出す。
は一瞬逡巡してから、男の財布にゆっくりと手を寄せた。
瞬間――――
男のもう片方の手が素早く己の懐をまさぐり、取り出したクナイでの短刀をはじき返した。が驚愕の表情を見せる間もなく、男は強く地を蹴って、くるりと宙を舞った。口元に構えた吹き矢が、の喉元を狙っている。
「くっ!」
刹那、の両眼が淡い碧い光を放った。
まるでの視る世界だけ時が止まった様に、飛来する矢がゆっくりと空を切る。
寸での所でそれを避け、仕返しとばかりに、袖口に潜ませた飛刀を放った。だが、投げられた刃は、虚空を切り裂き背後の壁に突き刺さっただけだった。
男はより高く跳躍し、第二撃を繰り出そうとしていた。は吹き矢に備えるべく新たに飛刀を構えたが、男が放ったのは煙球だった。
「!!」
視界が煙の壁で覆われる。危機を感じた時にはすでに遅く、男の放った蹴りがの鳩尾にきまっていた。
呼吸のできない苦しさに目を見張ったまま、は石造りの壁にしたたかに叩きつけられた。みしり、と耳障りな鈍い音がする。
まったくの不覚だ。相手の獲物を一つだけだと思い込んでいたなんて。
だが、己を叱責する暇もなく、男が背中から長い棒切れのようなものを取り出した。そして、片手で撫で付けるような素振りをすると、その手の平の下から鋭い刀身が姿を現した。
丁寧に仕込み杖なんかを用意してるなんて――――
は苦笑を浮かべ、ふらつく足で立ち上がった。体はまだ言う事をきかないが、立ち上がらなければ自分が殺される。
第一撃で弾かれた短刀を手繰り寄せ、返り討ちにしてくれんとばかりにが剣を構えた、その瞬間――――
丸い円盤のような物体が、宙を切り裂き男の身体をなぎ払った。
「え?」
一体、何が起こったのか状況を把握できないでいるに、聞きなれた声が投げかけられる。
「何も言ってくれないなんて、水臭いんじゃないの?」
現れたのは、いつもの飄々とした顔で羅針盤を構える半兵衛だった。
呆然としたを端目に、一撃で伸びてしまった男を見下ろすようにしゃがみこむと、
「これが欲しかったの?」
と、男の懐から一枚の紙を取り出した。
どうやら何もかもお見通しという事らしい。
いったい何時から聞いていたのやら…。
知らぬ顔の半兵衛とはまったくその通りだと、は思い知らされたのだった。
end
目のことは次辺りでちゃんと書きますので、それまで引っ張らせてください……