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常世の瞳 03





 風の噂で稲葉山城が落城したと聞いた。
 すでに見限った城主に未練や感慨など何も無いが、それでもせっかく守った城をいとも簡単に篭絡されるのは気分のいいものではない。
「ま、俺に落とせって命が下らなかっただけでもいっか」
 あの戦から幾月か経ち、半兵衛は豊臣の軍に名を連ねていた。秀吉が三顧の礼を以って迎え入れた才人――「今孔明」と名高き天才軍師である。
 豊臣軍の軍師、黒田官兵衛と並んで、両兵衛と称される事が多く、親交も篤い。この軍の中で、半兵衛の言葉を正しく理解できるのは官兵衛くらいのものだろう。
「でも、あの仕事熱心ぶりはねー」
 半兵衛に言わせれば、官兵衛は働きすきなのだ。どうせ自分たちは軍師なのだから、策を立てた後は、結果を寝て待てばいいのに。だというのに、将の采配から布陣まで、何から何まで徹底して決めようとする。策を立てた後のことなど、猪武者たちに任せてしまえばいいというのに。
「あーあ、欠点を挙げるなら真面目ってとこかなぁ」
 今日も次の戦の布陣を決めるとかで、朝一番から秀吉の元に呼び出されたのだ。
いっそ、どこかで昼寝でもしてから行こうか……
そんな事を思いながら歩いていると、前方を白い塊が横切った。
「ンナ〜」
猫だ。両目の色の違う白猫が、半兵衛の方を向いて一鳴きした。
あれを抱きかかえて寝たら、さぞかし心地いいんだろうな。
そんな事を考え、半兵衛はにんまりと笑みを浮かべる。
猫は半兵衛の思惑を悟ったように、尻尾を振って逃げていく。時折、ナ〜と鳴きながらこちらを振り返るのが、可愛いが小憎たらしい。
「捕まえたら、枕にしてやるからねっ」
腕まくりをして、半兵衛は白猫の後を追いかける。中庭を、塀の向こうを、屋根の上を、縦横無尽に動く猫の後を、自慢の身の軽さで駆けて行く。
いつの頃か軍議などというものは頭の隅から抜け落ちて、ただ猫を追っていた。
屋敷の中に追い込んで追い詰めたと思ったのもつかの間、猫はするりと障子の向こうに入り込んだ。去り際にちらりと半兵衛の方を見やって。
 にゃろう。
 妙な対抗心を燃やし、半兵衛はすぱんと障子戸を開いた。
 と、
「清正? 障子を開ける時はもっと静かに…」
 振り返ったその瞳と、かちりと視線が合った。
 まるで羅針盤の針がぴったりと重なり合ったように。
 病床に上半身を起こし、肩に薄紅の羽織を纏った姿に目を奪われる。細い線。色の失せた白い肌。色素の薄い淡い色の髪。
 ああ、まるでこれは……真昼の幽霊だ。
 そんな事をぼんやりと思った。
 枕元に蹲った猫が、からかうようにナアーと鳴いた。
「あ、えっと、俺……」
 知らぬ顔の半兵衛などと称されても、さすがに初対面の女子の寝所に立ち入って知らぬ顔などできず、半兵衛は大いに慌てた。すぐに退散しようと後ろを振り向いた瞬間、
 ずでっ
 何かに足を取られ、大げさに転んだ。
 何事かと肩越しに振り返ると、半兵衛の足を抱えるように少女の両腕が絡みついている。
「は、」
 一瞬言葉を失った半兵衛に、少女は詰め寄ると、
「竹中半兵衛様ですよね!?」
 と歓喜の声を上げたのだった。
「え、っと、そうだけど……」
「わぁ、本物だ! 官兵衛様の仰った通りの方です」
 官兵衛がどういう形容の仕方をしたのかわからないが――大方、子供のような容姿とでもいったのだろうが――、少女は嬉しそうに手を叩いた。
 最初に見た時はまるで深層の令嬢のような儚さをかもし出していたのに、笑うとまるで童女のようだ。
「えっと、君は……」
 問いかけて、この瞳には覚えがあると思い出す。
 あの時はもっと鋭く、猛々しいもののふのような目をしていた。
 女だと侮るなと、半兵衛を睨めつけたあの瞳。
 今はとても同じものだとは思えないが…、
「確か、織田の……」
「あっ、失礼いたしました。私はと申します。黒田官兵衛様の元で軍師見習いをしております」
 はいそいそと姿勢をただし、ぺこりと頭を下げた。何となく、半兵衛もつられて頭を下げる。
 お互いに頭を下げると、なんだか可笑しくなって、どちらともなく笑い出してしまった。
「君、変な子だね」
「ふふっ、官兵衛様にもよく言われます」
 くすくすと、二人の笑い声が春の陽だまりの中に響く。
 枕元で体を丸めた猫が、退屈そうにナーと一声、声を上げた。



end

ヒロインは一応、病弱な子。