人の言うことはよく聞くし、言いつけもちゃんと守る。分を弁え、出すぎず、正しい距離を保って。
もらわれ子としての境遇と、弟分の子飼い達がちょうどやんちゃ盛りで、ねねの手を煩わせていたと言うのもあるのかもしれない。
だから、自分はいい子で居ようとしたのだろう。ねねが知れば子供らしくない遠慮など、むしろ無用だと悲しんだかも知れないが。
それでもそう育ってしまった癖は少女の域を超えてからも抜け切らず、優等生然とした思考が時として自身を悩ませる。
規範から飛び出す事などできぬと知っていながら、時たま――――それを軽々と越えてしまう人たちが、ひどく羨ましくなるのだ。
いい子
かんかん、と音を鳴らして梯子を上りきると、屋根の上は思いのほか風が強かった。突風に羽織の裾がばさばさと靡く。
たった一階分の高さしかないと言うのに、そこからは領地が広々と見渡せ、見知らぬ世界をの視界に届けた。
屋根の中央にごろりと寝転がった男を見据え、はふうとため息を付く。
そして、両手を腰に当て、見下ろすように男の側に立った。
「半兵衛様」
声音をやや厳しくして名を呼ぶと、男がわずかに薄目を開けた。
穏やかな顔をしていたが元々、眠ってなどいなかったのだろう。反応の良い所を見ると、大方梯子を鳴らす音での来訪などとうに気付いていたはずだ。
「真っ昼間から執務をサボってお昼寝とは、良いご身分ですね」
「ん、まあ、春眠暁を覚えずって言うからね」
何が春眠だ。
とっくのとうに春など過ぎて、もう初夏の陽気だと言うのに、半兵衛にとっては一年中昼寝日和なのだ。
の嫌味をいともせず、半兵衛はふわあとあくびをかみ殺すと、ゆっくりと身体を起こした。てっきり執務に戻ってくれるのかと思いきや、ううんと伸びをしたきり、動く気配がない。
「あの、半兵衛様?」
訝って声をかけるが、半兵衛の視線は眼前に広がる風景に向けられたままだ。
官兵衛の名を出さねば動かないのだろうかとが思案を巡らせていると、ふいにここってさぁ、と半兵衛が口を開いた。
「意外と高い場所に建ってるんだよね。上から見ると、けっこう印象違うと思わない?」
それは確かに、も梯子を上った時に感じたことだ。
千里眼を持つにとって、物理的な視界など意味を持たない。どんな風景でもその両眼を以ってすれば、見えぬものなど無いからだ。
だが、視界が開けた時、生身の目で見るそれは確かに千里眼で視る風景とは異なっていた。
鮮明な、風のある風景――――額縁の向こうに視るはめられた空間とは異なる、生きた世界。
「この季節は雨が多いから、農家の人は大変だよね。でも、官兵衛殿が水路を整えたから、昨年よりは楽なはずだよ。一昨日と昨日、大雨であそこの道は水浸しになったんだけど、ほらもう水があがってる」
それは――――知っている。
官兵衛の報告書と、自分の千里眼でその様を確認したのだ。
だが、書面や額面の世界には、民は住んでいない。農具を抱えて水田で腰を折る人々や、井戸場でお喋りに夢中になる娘達。小枝を手にして走り回る子供。の知らない人々の生活がそこにはあった。
「俺はここで毎日これを見てるんだ。こうやってちょっと目線を変えるだけで、見えて来る物が違ってくる」
戦も武士も、すべて人々の上に成り立っているのだ。その根底を、半兵衛はそうやって己の目で見据えようとしているのかもしれない……
と、感心しかけて、は我に返った。自分が此処へ来た理由を思い出し、半兵衛様! と声を荒げる。
「ご高説は承りましたから、どうかお戻りください。このままでは、私が官兵衛様に叱られてしまいます!」
そのまま煙に巻くつもりだったのか、半兵衛はあらら正気に戻っちゃった、などと茶化している。まったく以って、油断も隙も無い。
「軍師たるもの皆の模範でなければなりません。半兵衛様はもっと官兵衛様を見習ってください」
「えー、俺だって十分働いてるよう」
「労働基準は一日八時間です。規則はちゃんとお守りください」
「はいはい、分かったから。怒んないでね」
半兵衛は立ち上がるとぱんぱんと袴の後ろを叩いた。
ようやく執務に戻ってくれるのかとが安堵したのも束の間、じっと見つめられる視線に気付き、なんですか、と訝る。
「んー、なんて言うか……」
「はい」
「そういうのって疲れちゃわない?」
きょとんと目を丸くするの鼻先を、半兵衛がちょんっと触れた。
「真面目ないい子もいいけどさぁ、たまには生き抜きしなくちゃ。息詰まっちゃうよ?」
気にしている所に触れられ、はうっと言葉に詰まる。
「子飼い達を見てみなよ。みんなおねね様に叱られて、でもそれでも自由にのびのびやってるじゃん。って俺から見てもどこか堅苦しいっていうか、無理してるように見える時あるんだよね」
うまくやらなくちゃ。ちゃんとやらなくちゃ。
ずっと、そう思いながら育ってきた――――
優等生ないい子。いつの頃からか素顔に癒着して張り付いてしまった顔が、息苦しくなる時がある。
だが、それはもはやの一部になってしまい――――今更、どんな顔をすればいいのか分からない。
「でも……私、こうするしか……」
俯いてしまったを前に、薬を効かせすぎてしまった半兵衛は困ったなぁ、などと苦笑をもらした。
「もっとみんなに迷惑かけていいんだよ。心配させても、怒らせても。そのくらいで……みんなのこと、嫌いになったりしないよ」
はゆっくりと顔を上げた。
そうか――――自分は、この家の人たちに、皆に嫌われたくなくて、ずっとそんな顔をしてきたのか……
それが逆に皆をやきもきさせているのだと、知らぬまま。
それでも、今更どうすればいいのかなど、分からない。ねねの言う事を聞き、官兵衛の命に従い、それを遵守する事を一番にしてきたにとって、規範を破ることは何よりも重い大罪に思えたのだ。
「んー、じゃあ、こういうのはどう?」
にっと悪戯っぽい笑みを浮かべて、半兵衛がの顔を覗き込む。
「今日一日、俺と一緒に悪い子になるっていうのは?」
え、と言葉を失ったを無視して、手始めに買い食いからかなぁ、などと半兵衛は独り頷いている。
「でも、官兵衛様が」
「いいの、いいの! さ、行こう!」
半兵衛はの手を取ると、ぽんっと軽やかに屋根を蹴った。
青々と稲が生え揃う田園風景が広がって――――は一瞬、眩しさに目を細める。
羅針盤を回して緩やかに地面に降り立つと、戸惑うの手を引いて、半兵衛は城下町へと歩を進めた。
そんな背中を眺めながら、やはり自分は優等生から抜け切れないのだと、は悟る。
だからこんなにも自由なこの人の事が――――ひどく羨ましくなるのだ。
end
でも、半兵衛に毒されたら、それはそれで悪影響な気がする。
(きっと官兵衛殿に怒られるよ)