神や仏が救ってくれるなどと、到底思えはしなかったからだ。
人の営みはすべからく人の力によって、未来を紡ぐものであると信じている。だから、覆せない運命などないように、どんな物も人の力で変えていけると――――それを信条に生きてきた。
だが、その時ばかりは神にも縋りたい気持ちだったのは確かで、左近は身を潜めたままじっとりと汗のにじむ拳を強く握り締めていた。
視線の先には年若い男女。二人揃って俯き加減に頬を染めている姿は初々しい恋人そのものである。
男が意を決したように顔を上げた。それに応じて、娘も顔を上げる。
よし! と左近は拳を握り締め、じっと二人の様子に見入った。
男が娘の手を握り、真摯な眼差しで何かを告げる。
娘が戸惑ったように首を振る。男が更に何かを告げる。
娘が驚いたように目を見開き……微笑んで二人は抱きしめあう――――はずだったのだが。
一体、何が起こったのか。
驚いた顔をした娘は、ぶるぶると肩を震わせ俯き。次の瞬間、両目に涙を浮かべて、固く握り締めたた拳を男の顔面にめり込ませていたのだった。
月下氷人
「馬鹿ですか」
と、その時ばかりは言わざるを得なかった。
美形で通った顔に大きな痣を作り、鼻腔から乾いた鼻血を一筋垂らした主人を前に、島左近は思わずそう問わずにはいられなかったのだ。
「何故だ」
と、せっかくの綺麗な顔を台無しにした三成が、仏頂面で訝る。
何故も何も、こちらこそ問いたい。
何故、あの場であのような場違いな言葉が飛び出るのか。
「俺の子を生んでくれ、というのはそれほどまでに悪い言葉か?」
解せぬと言った風に顔をしかめた三成に向って、左近は盛大にため息をついた。
そもそも、左近は三成の軍師ではあるが、色恋沙汰にまで首を突っ込むようになったのには理由がある。
この男、顔もよく頭も良く、およそ向うところ敵なしのように見えるが、恋愛に関してはからきし疎いのである。
好いた女子がいないのではない。むしろ一途に想い続けるほどの情熱を持っているのだが、それを体言するのがとにかく下手なのだ。
故に相手も憎からず思っているはずなのに、いつも上手くいかない。ここぞと言うところで、盛大に外す。まるで狙ったように大外れを引き、ひんしゅくを買って痛い目に遭うのだ。
それが悪気も無く、すべて素でやっているのだから、不憫でならない。
人の恋路に口出しするのは軍師のやる事ではないが、ここは一つ左近が殿の恋を成就させましょう、と一肌脱いだわけなのである。
だというのに――――
「何故、殿はそうなのですか」
と、左近は何度目かになるため息を漏らした。
左近の策のおかげで二人の距離は縮まり、お互いに意識しあう中になった。後はたった一言、恋仲になるきっかけさえあればいいのだ。
その最後の一歩を縮めるべく、格好の告白の機会を得たというのに――――三成はそれを粉々に粉砕したのである。左近のお膳立ても何もかも、すべてパァだ。
「よおく考えてください、殿。女性がそんな言葉を言われて喜びますか」
「俺は女ではないから分からぬ。が、俺の子を生みたいと言ってくれたら、俺は嬉しく感じるだろう」
「それは殿が男だからでしょう」
呆れて呟いた左近に向って、三成はそうか? と疑問符を浮かべた。
このように、どこかずれているのだ、うちの殿は。
大方、なぜ殴られたのかも分かっていないのだろう。は俺と夫婦になるのは嫌なのか、とこれまた鬱陶しいくらいに盛大に落ち込んで見せたりした。
「そうじゃない、そうじゃないんですよ、殿」
がしがしと髪を掻き毟りながら、左近はどうしたらこの不器用な男を、好いた娘と添わせてやる事が出来るのかと考えた。
「普通に好きだとか愛してるとか、そういうので良いんです。そういう直球なのを、女子は好むんですよ」
「だから、そう言った」
拗ねたような顔をする三成。
ああ、確かに彼は勇気を振り絞って告白したのだろう。そしてもまた、その言葉を待ちわび、泣くほど喜んだに違いない。
が、その後の言葉があれでは、すべて台無しだ。
聞くところによると、三成を殴り飛ばした後、は泣いて屋敷に戻り部屋に篭ってしまったらしい。まあ、まるで身体目当てのような言葉に傷つかぬはずがないと思うが――――あちらもあちらで、恋愛慣れしていない。
要は似た者同士で、それも左近を苦労させる原因の一つなのだ。
「とりあえず、次の策を――――否、その前に機嫌を直してもらわないとか」
ぶつぶつと呟く左近に向って、三成がおい、と声をかけた。何ですか、と素っ気無く返すと、三成が俯いたまま、すまぬ…と呟いた。
「俺はどうやら気の効いた言葉というのが言えぬらしい。左近には……その、苦労をかける」
左近は一瞬、目を大きく丸め――――そして、くしゃりと破顔した。
「何をらしくない事を言ってるんですか、殿」
あなたはもっとふてぶてしくて、偉そうでいいんですよ――――
それを口に出したらきっと怒るだろうと思いながら、胸中で密かに呟いて。
こんな主だからこそ、我が身を惜しまず応援したくなってしまう。
どれほど三成が一途にを想っているか知っているからこそ、その想いを遂げさせてやりたいと、思ってしまうのだ。
「さて、次は甘味攻めと行きますかね」
まずはの機嫌を直そうと、左近は新たな策を練り、にっと笑って見せた。
end
おまけ
「ところで殿。あの台詞、どこから引用したんですか?」
「官兵衛殿から譲り受けた超絶モテテク特集だ。なぜ、あれほどの軍師の勧める書に、誤りがあったのか分からぬが……」
「(殿、謀られてますよ!)」
官兵衛は全力でそれを阻止します。