蛍
執務室から出ると、辺りはすでにとっぷりと日が暮れていた。最近、仕事に没頭すると時間の経過が分からなくなってしまう。
すでに空には満点の星が輝き、欠ける事のない望月が煌々と光を降り注いでいる。
官兵衛は月明かりを頼りに、の寝所を訪れた。
今年の春先からの具合が良くない。もともと病弱な方だったが、以前にも増して具合が悪そうにしている事が多く、最近は床から起き上がれない状態が続いていた。
長くはあるまい――――
医師の見立てなどなくとも、それくらいの事は分かる。幼い頃から身近に置き、育てて来たのだ。の命のともし火が今にも消えようとしている事など、誰に言われずとも理解している。
「、起きるているか?」
声をかけても、返事はない。
怪訝に思って襖をそっと開けると、空の布団がそこに広がっていた。
どこに行ったのかと視線を奥にやると、縁側の向こうに立つの姿があった。
月の光を浴びて青白く輝くの肌は、まるで彼岸の者のようで、官兵衛は一瞬かける言葉を忘れた。
元々、線が細く幽鬼のように儚い印象を与える娘だった。それが今や本物の鬼になってしまったように、ぼんやりとした曖昧な姿でそこにある。
初夏を知らせる蛍が点滅しながら漂い、哀愁を誘った。
蛍たちと同じようにこの娘は秋まで生きない。あの碧色の儚い光と共に、きっと闇夜に消えてしまうのだろう。
「寝ていなくて良いのか」
声をかけると、が振り返った。
長い髪を垂らし、夜着の上に紅い内掛けをひっかけただけの姿だった。
「官兵衛様」
嬉しそうにが微笑む。
「蛍を見ていたのです。綺麗で……なんだかこの世のものじゃないみたい」
お前と何が違う――――
言いかけて、官兵衛は口を噤む。
いつの間にか、の両眼が煌々と輝いていた。碧がかった光が、蛍の輝きにあわせ、ちかちかと光を放つ。
「やめろ。無駄な力を消耗するな」
言うと、は困ったような笑みを浮かべた。
「最近は制御がまったく効かないのです。意図せず突然光り出して、余計なものを見せるのです」
それは領民の姿だったり、戦だったり、懐かしい人たちの顔だったりするのだと言う。千里の先も見透かすといわれる常世の瞳は、先の短いのために懸命に何かを映し出そうとしているようだった。
「でも、本当に見たいものは見せてくれない……。この目では、常世の風景は映せないのでしょうか」
問わずとも、誰の姿を思い出しているかは明白だった。
白い帽子を斜めにかぶった少年のような面影。幾度夢に見ることはあっても、それをこの目で見ることは叶わず――――
は見えぬ誰かを虚空に思い描くように見つめ、そしてそっと目を閉じた。再び目を開いたときには、両眼の光は失われていた。
「官兵衛様には……感謝しております」
前触れもなく、は感謝の言葉を紡ぐ。
「あの日、官兵衛様に救われて、人形のように生きていた自分がやっと命を手に入れた気がしたんです。ここの暮らしはとても楽しかった。官兵衛様がいて、半兵衛様がいて……私、幸せでした」
官兵衛は無言だった。
感謝される事などではない。命を救ったのは確かだったが、それは己が野望のためだった。泰平の世を得るため、の能力を利用した。泰平のためという大義名分を与え、を騙していただけだ。
戦に出、人を殺し、血に塗れ、そんなことを強要した自分に感謝など必要ない。
「官兵衛様。私、官兵衛様のお役に立てたでしょうか?」
反論しようとした官兵衛の言葉を遮るように、は問う。
官兵衛はしばし沈黙してから、小さく、ああと答えた。
「よくやった」
たったそれだけの賛辞で、は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
おもむろに官兵衛に抱きつき、
「嬉しいなぁ、官兵衛様に褒められた」
と、笑う。その笑顔には、一筋の涙が流れていた。
「もう休め。身体に障る」
はまだ官兵衛といたいと不満そうな顔をしたが、やがて怒られた子供のように渋々とそれに従った。
「じゃあ、手。つないでてください。眠るまででいいから。怖い夢、見ないように」
子供でもあるまいに、と官兵衛はため息をついたが、がむりやり官兵衛の手を引っ張ったので、やらせたいようにした。は官兵衛の手を握り締め、えへへと笑う。
「官兵衛様の手、あったかい。こうしてると、子供の時みたい」
手をつないだ記憶など多くはなかろう。それでも、官兵衛にそうしてもらった記憶は、の大切な宝物だった。
の瞼が眠たそうに、ゆるゆると下がる。
「官兵衛様。きっと、私のこと……」
夕重は滑り落ちるように眠りの世界へと飛び立った。
小さく消え行く声は、何といったのか聞き取ることはできなかった。
官兵衛はの枕元に座し、の目が覚めるまで手を握る事にした。
朝方、は眠るように息を引き取った――――
狭い床の間に大勢の人間が詰めかけ、それこそ足の踏み場もない。
中央には白い布をかぶせたの身体があり、それを取り囲むように、皆が座っている。
官兵衛は独り離れたところで、ひどく覚めた瞳でその光景を見ていた。
「悪い子だね……!! あたしより先に逝くなんて、本当に、悪い子なんだから……!!」
ねねはの身体に泣き縋り、それを秀吉が肩を抱くようにし宥める。清正は紙のように白い顔で、横たわる身体を呆然と見つめていた。三成は涙こそ流していなかったが、悔しそうに唇をかみ締めていた。正則は恥じも外聞もかなぐりすて、声をあげて慟哭した。
皆、の死を悼み、涙を流している。
一人だけそうしていない自分は異物だった。
官兵衛は静かに立ち上がり、そっとその場を中座した。それに気づいた清正が、どこに行くんだよ、と咎めるように問いかけた。
「執務だ。戦が近い。このような場所で、止まっている場合ではあるまい」
「てめぇ!」
清正は官兵衛の胸倉を掴みあげた。怒りをたたえた獣の目が光っている。
「私に怒りをぶつけても仕方あるまい。は死んだ。生きた者が出来る事といえば、盛大な葬式をあげるか、その者の意志を継ぐだけだ」
卿は前者を果たせば良い。
そう言って、官兵衛は清正の身体を押しのけた。
清正は今にも食って掛からんとしていたが、さすがに死んだや泣き崩れるねねの前で騒ぎを大きくする気にはなれなかったようだ。怒りの矛先を失った拳を下ろし、ただ怒りに耐えた。
あの者たちに言わせれば、きっと自分は冷たいのだろう。
だが、涙を流すことが死者の弔いになるとは思えなかった。
が最後まで信じた泰平の世のために、己は邁進するだけだ。たとえ冷酷だといわれようと、その道に誤りはない。
執務室に戻ると、の飼っていた白猫がやって来た。主人が死んだ事も知らず、官兵衛の足にすりよりごろごろと喉を鳴らす。
この猫のように、この執務室を占領していた者たちは、もういない――――
己の中に生まれた虚無感を忘れるように、官兵衛は執務に没頭した。
end
官兵衛は誰かが死んだとしても、泣いたりうろたえたりはしないと思う。
ある意味、誰よりも死を理解していて、死を悼むからこそ、
自分の今できることを果たそうとするのではと妄想。