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!CAUTION!
官兵衛が保護者以上の感情を抱いています。また、官兵衛の妻が名前だけ出てきます。
それでも許せる方のみお進みください。




















声なき文を





 毎月、月初めに故郷(くに)の妻と文のやり取りを交わすのが習慣となっている。
 それは官兵衛が播磨の国を捨て、秀吉の軍師となった頃より続いている。初め妻も共に付いてくると言ったが、元々身体が弱い事、また人質の意味合いもあり置いてきた。妻は物静かで言葉少なな女だが、その時は無言のうちに責められているのだと感じた。
 文にはいつも故郷の事や息子の松寿丸の事、播磨の山々が季節の色を帯びてきた事や、息災かどうか気遣う言葉が綴られていた。
 仕事の事は聞かぬ。それは妻と官兵衛の間の暗黙の了解である。官兵衛も語らぬし、女が気にするような事ではないと思っているのだ。
 仕事の代わりに、妻はいつもの事を聞く。ひょんな事から弟子を取る事になったとしたためると、妻は思いのほか興味を持っての事を聞いて来た。
 子供の相手などろくにした事がなかった官兵衛は、あれやこれやと妻に聞くと、その内に妻の方にも情が芽生えたらしい。妻が娘を欲しがっていた事を、『離れていてもまるで我が子のように感じます』という柔らかな文字から知った。
 いつだったか帰郷の折にを伴うと、妻はとても嬉しそうにを迎えた。
 そしてその夜、官兵衛の枕元で松寿丸と添わせてはどうかと、微笑みながら言ったのだった。
 の方が年上であるし、まだ幼かった息子に添わせるには早すぎると、まともに取り合わなかったが、妻は本気で考えていたらしい。尾張に戻る際に、にかんざしと手鏡を土産に持たせて送り出した。
 その妻の文から、の名が消えたのはいつの頃からだったろうか――――
 あれだけ気にしていたの事を一切聞かなくなり、まるで存在そのものを忘れてしまったかのように、話題に触れなくなったのは。
 怪訝には感じたが特段気にするでもなく、官兵衛はいつも通りの文を出し続けた。女児の扱いに困った官兵衛はやはり妻に相談し、妻も問いには逐一答えていた。
 だが、やはり妻の文からは必要以上のの話題は避けられていた。
 それからしばらく経ち、は十二、三に成長していた。男児でいうなら元服を済ませる年頃であり、が初陣を迎えた頃である。
 まだ幼くあどけなさを残すが、時折はっとするような女の顔を見せ、男共の心をくすぐる。若く美しい軍師に、将兵達が色めきだっているのが、官兵衛には複雑に感じられた。
 もしその時、官兵衛の傍らに後に共に両兵衛と称される相棒がいたならば、それは嫉妬だね、と官兵衛の心内を軽く看破したに違いない。
 だが、自分の感情にさえ疎く、表情乏しい官兵衛にはそのわだかまりが何であるか、はっきりとした形を掴む事が出来なかった。
 ただ、の披露が惜しく感じられ、に群がる男達を疎ましく思った。将兵から子飼いの若造達に至るまで、なぜ揃いも揃ってあれに下らぬ気を起こすのだと、呆れ半分邪魔に感じていたのだ。
 そして、いつの頃からか官兵衛の文からも、の名が消えた――――
 なぜ書かなくなったのかと問われれば、書く必要がなくなったからだと官兵衛は答えるだろう。も成長し、手を焼かなくなったというのもある。
 だが、それとは別にどこか後ろめたい感情が、胸の内にわだかまっているのを官兵衛は感じていた。
 の名のない文が、妻の沈黙が、無言のうちに官兵衛を責め立て、何を責められているのか官兵衛がそれに気付いた時から――――官兵衛はの存在を文の上から消滅させた。





「奥方様がいらっしゃるのですか?」
 妻が尾張に来る事をどこから聞きつけたのか、がばたばたと足を慣らして執務室に飛び込んで来た。書をしたためていた官兵衛の文机に両手を置き、いつですか、もうまもなくですか、と目をきらきらさせて問うた。
 妻がを大切にしたように、も妻に懐いていた。その事を、妻も官兵衛もすっかり忘れていたのだ。
 月の終わりには来る、と短く告げると、は感嘆の声を上げた。
「なぜお前が喜ぶ」
 官兵衛の問いに、は喜びを隠し切れない顔で、だって! と声を上げる。
「奥方様にお逢いするのは久方ぶりです。お変わりないでしょうか」
 は官兵衛と妻の文の内容を知らない。とっくのとうに、二人の文から自分の名が消え失せている事を知らないのだ。そして、二人がどういう理由で、の存在を黙殺したのか――――当の本人は想像だにしなかった。
 妻はかつてと同じようには、との再会を喜ばないだろう。
 気の弱い妻は、淡い笑みを浮かべて、武家の女らしく振舞おうとするに違いない。
 だが、その裏に秘めた女の嫉妬を、果たして隠し切れるのだろうか。
 美しく成長し、人々の羨望と憧憬を集めて止まないこの娘を前にした時、果たして心穏やかでいられるのだろうか。
 そして、自分は――――おそらく誰も知らない、妻だけが感じ取った浅ましいこの感情を、隠し続ける事ができるのか。
「お前はあれに逢う事はない」
 の顔を見ず、書に視線をやったまま告げると、は明らかに落胆の表情を作った。
「何故ですか!」
 今すぐにでも噛みつかんというの勢いを無視して、
「お前は浅井に遣いにやる」
 と、短く告げた。
「でも……だって、せっかくお逢いできるのに……」
 不平を零すが、官兵衛のはっきりした物言いから、それが覆る事がないと察すると、は肩を落として執務室を辞去した。
 そして、浅井の城へ向かう日。は官兵衛に錦の袋を託すと、奥方様にお渡し下さい、と告げた。
「ずっと前にいただいたかんざしが嬉しくて……私からも贈り物を」
 と、子供のような顔で恥ずかしそうにはにかむ。
 中には鼈甲のかんざしが入っていた。黒田家の紋である藤を象った、精巧な造りである。おそらくこの日のためにわざわざ職人に作らせていたのだろう。
 官兵衛は承諾すると、必ず渡すと約束して、を見送った。
 の小さな背が道の向こうに消えると、官兵衛は屋敷の裏へ向かい、錦の袋に入れたままかんざしを小川の水面に浮かべた。
 妻はきっと、喜ばぬに違いない。
 黙って受け取るやもしれぬが、故郷に戻ってから、これが原型を留めているかは分からなかった。
 もし、その事が何らかの形での耳に入れば、あれは取り繕う事も忘れて悲しむに違いない。もしかしたら、子供のように泣きじゃくるかもしれない。
 どちらにとっても、良い事にはなりはしない――――
 静かに流れていく錦の袋を見つめながら、官兵衛はこれで良いのだと自分に言い聞かせた。



end


珍しく官兵衛殿が保護者以上の感情を持っています。
なので、かなり人間らしすぎる、逆に言うと官兵衛らしくないですね。
本当は女の嫉妬なんぞに気を利かせたりしないだろうな……
(というか、気付かないし気付けない)