!CAUTION!
このお話は「青い羊は思考する」の外伝ですが、本編のようなギャグ要素はありません。
がっちりシリアスで、ヒロインによる残忍な表現が含まれます。
問題ない方のみお進みください。
濃紺の官服に染み込んだ血は、まるで闇を纏っているような錯覚を呼んだ。
全身を血に染め上げ、水晶のように澄んだ刀から鮮血を滴らせるその姿はまるで悪鬼のようである。
獬豸を戴いた宝冠がなければ、一体誰がこの者こそ正義であると理解出来ただろう。
否ーーーー如何なる理由があろうとも、眉根ひとつ動かさず罪人を処する行為は果たして正義を語る事など赦されるのだろうか。
人であるならば、決して赦されない。
だが、この者であるならばーーーー
行く手を阻むつもりはなかったが、荀彧の困惑が思わず彼に歩を進めさせた。追い詰めた獲物の前に現れた彼に、その者は罪人に向けたのと同じ視線を寄越す。侮蔑や嘲笑を含んだものではない。どこまでも公平に冷徹だった。
彼女は罪人を蔑んで剣を振るっているのではないのだと、荀彧は知る。それはごく当たり前で当然のことなのだ。穀倉番の猫が鼠を追わなければ家主は猫を怠け者だと言うだろう。猫が鼠を追うのと同じくらい当たり前のこと。
「罪を裁くのが私の役割。ならばその者の首は私に刎ねさせてくださらねば」
獬豸とは、そういう生き物なのだ。
青い羊は思考する ー獣の理ー
鼠を捕まえた猫を褒めるように、罪人を罰したを曹操が労ったので荀彧は良い気分ではなかった。久しく嗅いでいなかった不快な血の匂いを多分に嗅いだせいでもあるし、が人を殺す瞬間を目の当たりにしてしまったせいでもあった。
普段は竹簡を五つも持てないような細腕が、まっすぐに剣を振り下ろし男の首を刎ね飛ばした。男の膂力であっても成人の首を落とすには勢いがいる。それをまるで、花鋏で茎でも切るような容易さで落としてしまうのだ。
理由はある。男が罪人だったからだ。
は瑞獣・獬豸である。罪人を罰し正義と公平を司る、天界の獣だ。
普段温厚なこの獣は、伝説では羊に似た姿をしており、一角を持つ麒麟のような吉祥の印である。殺生を嫌い、穢れを忌む、幻想の神獣。だが、それが羅刹のような残忍性を罪人の前にだけ見せるのだ。
獬豸の角は道理無き者を突き殺す。故にが殺せたと言う事は、男が罪人であった何よりの証だった。そうでなければあの宝剣は飾りばかりのなんの役にも立たない鈍らなのだ。
あの剣では罪人しか殺せない。罪人でなければ、は超常的な力を発揮しない。それがこの行為の正当性を物語っている。
しかしーーーー
「殺す必要があったのでしょうか」
自問にも似た荀彧の沈んだ声に、は呆れたような顔をする。何を今さら、とその顔が言っている。
「あったから殺したのです。罪があったから死んだのです」
の言葉は、正しい。
死に値すべき罪があった。だから男は死んだ。
だがそれでも、が剣を振らなければ男が死ぬこともなかったのではないか。
荀彧がそれを口にすると、は明らかに不機嫌な顔をした。
「敵将を前にして逃げ帰るような将に意味が? 布陣を見て策を巡らさない軍師に価値はありますか?」
「それは……」
「この力は天帝陛下に与えられたもの。曹操殿も私に法の絶対者たれと、廷尉卿に任じたのでしょう。だから私は罪を裁くのです。公平に、公正に。私から角を奪うなら、それは私に死ねというのも同じこと」
もまた曹操の言葉に従っているにすぎない。魏において、唯一獬豸冠を戴くことを許したのは曹操その人なのだ。
獬豸の判決に誤りはない。獬豸には罪が見えている。いかなる恣意的な意図も加わることはない。さながら天が決めたことであるかのように、ただ獬豸はその天啓を罰という形で示すのだ。
しかし、果たしてそれは人の世には正しいことなのか。
「七人です」
はため息と共に告げた。
「あの男は七人殺しています。一人は老人を、一人は子の居る父を、一人は妊婦を、一人はまだ目も開かない赤子を、一人は嫁入り前の娘を、一人は7つにならぬ子供を、一人は病で起き上がれぬ老婆を」
殺しました。
は続ける。
「しかし、それは……」
「そうです。あの男には家族がいました。病を得た妻の薬を買うために金子が必要でした。だから隣家に火を付け、一家を惨殺した」
それは罪ではありませんか?
のーーーーあの冷徹な瞳が問いかける。
罪でないはずがない。だが罪を贖う手段が死しか残されていないのか。荀彧はその一点が気にかかっている。
だが、は無残にも首を横に振る。
「違いますよ。贖罪ではなく断罪です。この国の法でも殺人は死罪と決められている」
「では、結局八人の人間が死んだだけです。やがてそれは九人になるかもしれない」
「私が殺したのは一人です」
正しい。正しい……が、その正しさは一体誰のものなのか。
「それでも……私には耐え難いのです」
唐突に荀彧の手がの腰元に伸びたかと思うと、腰の宝剣がすらりと抜かれた。
は驚くでもなく、荀彧の奇行を見守る。
「それでは何も切れませんよ?」
獬豸の角は罪人しか殺せない。この剣はも、荀彧自身も傷つけはしないだろう。だが荀彧の意図は別にあった。
未だ血を滴らせたそれを、己の裾が汚れるのも気にせず拭い去ったのだ。そして次に返り血の飛んだの頬を、同じようにもう一方の裾で拭ってやる。
「なんですか?」
は相変わらず無表情であったが、荀彧の意図が掴めず戸惑いが双眸に浮かんでいた。
「貴方はきっと正しいのでしょう。私にはそれを否定する事は出来ない。ですが、貴方がこのように血に塗れて平気な顔をするのが、私にはとても辛いのです」
はきょとんと目を丸くした。素直に何故です、と問いかける。
だが荀彧は答えなかった。聖獣に人の心など分からぬと侮ったのではなく、ただ荀彧自身もそれを説明する言葉が思いつかなかったのだ。
ただひと言、続ける。
「私は人間ですから」
その一件の後も、は依然として法の絶対者たらんと宝剣を振るった。それが当たり前のことであると、本人も周囲も受け入れていた。
ただ、あの罪人の妻は何者かの支援を受けて一命を取り留めたらしい。その報せが荀彧の耳に届いた時、彼はわずかに顔を綻ばせた。
end
廷尉卿というのは今で言う法務大臣らしいです。