明くる日、賈詡の前に顔を出したのは、完全に生気を失った徐庶だった。いよいよただ事ではないと感じた賈詡は、徐庶の劣等感を刺激しないように注意しながら、なんとか昨日の出来事を聞き出すことに成功した。
時に慰め、時に宥めすかし、なぜ俺がこんな事をせにゃならんのだと何度も自問を繰り返しつつ、それでも賈詡は懸命だった。
徐庶にこんな所で潰れられては困る理由があったのだ。
番いの鳥06
司馬懿が去った後の己の態度を、徐庶は醜態と表現した。
見舞いに来たという旨を口実だと見透かされそうな下手な言葉で告げ、主に茶を差し出されたものの、その先の話題も続かずただ茶碗にばかり口をつけていた。
そして、
「先程の司馬懿様とのお話を、聞いていらしたのですか?」
と尋ねられると盛大に動揺し、茶碗をひっくり返したのだった。
今さら誤魔化しても意味が無い。立ち聞きした事を侘び、正直に答えるとはただそうですか、と頷いただけだった。
徐庶の動揺に反し、はいつもの面を貼り付けたような顔のままだ。どこか寂しげで、悲しげで、何かを諦めたような目をしている。その顔の理由がもしや先の軍師と関係するのかと思い、徐庶は意を決し郭嘉の話題を振った。
徐庶は直接会ったわけではないが、華やかな人だったと聞いている。酒と美女を好み、最期の瞬間までこの世の悦を愉しみ尽くそうとした人だと。軽薄とも不埒とも称されるが、皆その奔放さを愛していたのだと思う。犬猿の仲だったと言われる陳羣ですら、郭嘉を評する言葉の中に羨望と憧憬が混じっていたのだ。
はそれを肯定しつつも、ただ一言異を挟んだ。
「でも、優しい方ではありませんでした」
意外な言葉だった。女性にはとかく優しく、穏やかで、甘い男だと聞いていた。ほどの美姫であれば、当然郭嘉に口説かれていたのではないのか。
「それは……どういう意味で?」
「優しくて、穏やかで、だからこそ人に踏み込ませないんです。人に優しいばかりで決して心を開かない、残酷な人です」
「でも、あなたとは兄妹のように仲が良かったのでは?」
口に出してから徐庶はしまったと失言を悔やんだ。はわずかに眉をひそめただけだったが、おそらく核心に近い問いだったのだろう。
「ええ。郭嘉様には大変良くしていただきました。この御恩は一生忘れる事はございません。でも……」
そこで言葉を切り、は何かを考える素振りをした。一瞬、能面のような顔にわずかな感情が浮かび上がる。
唇がなにか音のない声を紡ぎ、
「いいえ。続きは彼岸で直接、郭嘉様にお伝えすることにいたしましょう」
はそれ以上、郭嘉について言及する事はなかった。
ただし、あの一瞬。の唇は小さく ――――
”恨みます”と呟いていたと、徐庶は確信したのだった。
完全に生ける屍のようになってしまった徐庶をほっぽって、賈詡は独り回廊を歩んでいた。脳裏を占める面倒事に、いい加減愚痴の一つでも零したくなる。
まったく面倒な事を安請け合いしてしまったものだ。人の恋路に首を突っ込むなど、馬に何遍蹴られて死ぬかわかった所業ではない。だが、あんな風に死に際で頼まれれば嫌といえるはずがない。それを狙ってあの男は、一番効果的な場面で賈詡にそれを頼んできたのだ。全くもって忌々しい。
誰かにこの苛立ちをぶつけてやりたい。次あの回廊を曲がって来る奴がいたら、そいつに憂さ晴らしの一つでもしてやろう。
そんな八つ当たりを画策していると、ちょうど冠を頭に戴いた文官が角を曲がってきた。獲物の到来に思わずほくそ笑んだ賈詡はいつもの軽いノリで声をかけたが、その文官の顔を改めて視認して、自分の失態に気づく。
曹操お抱えの軍師の中でも、超がつくほどの生真面目で堅物。荀彧だ。
荀彧は声をかけてきたのが賈詡だとわかると、
「執務の話しなら室で伺いますが?」
と、返した来た。そうではない事などとっくに分かっているのだろう。
「あぁ、いや……」
「また詰まらぬ策を弄したのでしょう」
何もかもお見通しというわけだ。さすが曹操に我が子房と言わしめた男には頭が下がる。
荀彧は賈詡のその態度を肯定と受け取ると、やれやれとこれ見よがしにため息を漏らして見せた。そんな事をする暇があるのなら、少しは仕事を手伝ってくださいとでも言いたげだ。
「いや、俺だって何も好き好んでこんな事に首を突っ込んでるわけじゃない。だが死に際の頼みとなるとなぁ……」
「あなたも律儀な人だ。奉孝も妙な願いを託したものです」
「あんたには何と?」
「おそらくあなたが言われたのと同じ事でしょう。私は断りましたが」
なるほど、と賈詡は自分が抜擢された事にそこで合点がいった。そもそも郭嘉は荀彧が曹操に推挙し、取り立てられた人物だ。知己である荀彧に後のことを頼み、断られて賈詡にお鉢が回ってきた。郭嘉とてどうせ断られることくらい分かっていただろう。相手はあの荀彧、どんな理由があれこんな事に手を貸すとは思えない。
「私に殿を娶るようにと言ってきましたよ」
「はぁ?」
「おや、あなたの頼みは違いましたか?」
荀彧がしたり顔で問う。ああ、くそ、死んだ郭嘉といい荀彧といい、まったくもって忌々しい。軍師が策を何段構えにも立てるのは当たり前だが、それに自分が因子の一つとして勝手に組み込まれていると腹が立つものである。
「ああ……そりゃあ俺はあんたよか出が良くないからな」
「おやおや、卑屈になってはいけませんよ。どうせ奉孝だって本気ではなかったはずです。あそこで私が、あい、わかったと了承しようものなら、私を道連れにしようとしたかもしれません」
「は、笑えん冗談だ」
「余裕に見えて、断腸の思いだったのですよ。それでも断ると分かっていながら、私に頼むのだから往生際が悪い。幸い死ぬまで殿が誰かのものに成ることはありませんでしたが、困ったのは残された者達。とりわけあなただ」
言い当てられて賈詡は憮然とした。分かっている。こういう未来も見えていなかったわけではない。だが、あの場面で死に逝く者の願いを撥ね付けられるものか。
そういう賈詡の気持ちを知りつつ、自分は郭嘉の死に際に間に合わなくて幸いでした、などと荀彧はのうのうと言ってのけるのだ。
「くそっ……軍師なんて性格の悪いのを旦那にしたら、お姫様はもっと不幸になるぞ」
「おや、ご自分の事をよくわかっていらっしゃる」
「……あんたも大概いい性格だよな」
「奉孝の友人ですから」
互いに悪態を付きつつ、故人に恨み言を並べながら、二人の軍師は郭嘉の事を想うのだった。
end
フライング荀彧です。