Text

 

番いの鳥04





 緩やかに流れる水のような琴の音に、徐庶はかける言葉を失ってしまった。
 そのまま回れ右をして立ち去りたい気持ちになったが、物陰に隠れた賈詡に何をしていると睨まれ、徐庶はゆっくりと四阿で琴を爪弾くの元へ歩み寄った。
「え、ええと……」
 第一声を散々賈詡の前で練習させられたが、の前に出ると頭が真っ白になって何一つ言葉が出なかった。
 まるで思春期を知ったばかりの子供のように緊張している。
 そもそも剣術や学問に夢中になってばかりで、多少恋愛めいた事はしたものの、この歳になってもまったく女性に慣れていないのだ。いきなりこんな美姫の前に出されても、ろくに言葉などかけられるはずがない。
 せめてもと、やはり賈詡に持っていくよう言われた花を、徐庶は戸惑いながら差し出した。
 琴の音が湖面に吸い寄せられるように、ぴたりと止んだ。
「私に?」
 の瞳が、不思議そうに徐庶を仰ぎ見る。
「あ、ああ……。その、とても綺麗に、咲いていたから」
「知っています。この湖にもたくさん咲いていますもの」
「ああ……」
 睡蓮の浮かぶ湖を一望し、徐庶はばつの悪そうな顔をした。物陰に隠れた賈詡が、あちゃあと顔を覆ったのが見えたような気がした。
 ここで気の利いた台詞でも吐ければ良いのだが、あいにく朴念仁の徐庶は二の句が告げずにいた。
 その徐庶を哀れに思ったのか、は少しだけ目元を緩め、徐庶の手から睡蓮の花を受け取った。
「綺麗……」
 ちらりと賈詡の方に目をやると、賈詡は必死にそこだ、いけとでも言うような身振りをしていた。大方、君のほうが綺麗だよ、とでも言えという意味なのだろう。
 どうやら賈詡はが徐庶に気があるのだと思い込んでいるらしい。そういう単純なものでもないだろうに、と徐庶は密かに溜息を漏らし、視界から賈詡の姿を追いやった。
「その……君に聞きたい事があるんだ。どうして俺を助けるような真似を?」
 はぱちり、と瞬きをしてから、ああ、と今思い出したように呟いた。
 にとっては簡単に忘れてしまえるほど、些細な出来事だったようだ。
「結果的にああなっただけで、大きな理由はありません。ただあなたにご忠告差し上げようと思っただけです」
「忠告?」
「鳥籠の鳥である自覚をお忘れなきよう。鳥籠の中と言えど、ここは決して安全な場所ではないのです」
 徐庶ははっと息を飲み込んで、の湖面のように静かで、揺れる事のない瞳を見返した。
「ここには人の後をかぎまわる狗も、手の平を返す猫もいる。ましてや同じ鳥と言えど、いつ禽獣に化けてあなたの羽をむしりとるとも分かりません。飼い主の寵を得るのに皆必死なのです」
「飼い主の、寵……」
「ここは才能の墓場です。別の場所ならば、誰からも尊敬されるはずの才人が当たり前のようにいる。本来ならば妬む事も嫉みも知らぬ聖人のような人たちが、自分たちは非才の身だと勘違いし、心を濁らしていくのです。先日あなたに水を被せたあの人たちのように」
 徐庶はぞくりと背筋を震わせた。
 才人を好む曹操の膝元に能のない者がいるはずがない。あの日、徐庶を囲んだ者たちも本来であれば、みな学士として尊敬を集めるべき者たちだったはずなのだ。
 それがこの才能の墓場で、徹底的に心を潰された。
 真の天才を目の当たりにし、苦しみ、あがき、血の滲むような努力を重ねても、それが決して自分には越えられぬ壁だと知り――――濁っていく。
 まるで、徐庶がかつて鳳雛や臥龍に感じた劣等感のように。
「失礼ですが、あなたはとても純粋な人のように思えたから……差し出がましいと思いつつも、ご忠告差し上げようと思ったのです。あなたのような人が、一番毒気に充てられ易いから」
 胃の中からこみ上げる吐気と、脳を揺さぶる眩暈に、徐庶は口元を押さえた。
 まるで心の中を見透かされたような心地だ。徐庶さえも知らず、忘れたつもりでいた劣等感を引きずり出されたような――――
 自分は天才じゃない。
 それなりに剣の腕も立つし、知も磨いた。だが、本物の天才に出会った時、彼の中の自尊心は音を立てて崩れ落ちたのだ。
 心の中のもう一人の自分が言う。
 本当は劉備の元を去れて安心しているんじゃないか。自分には劉備を支えるには力不足だ。まぐれで戦に勝てただけで、劉備の理想を支えていく事など出来ない。
 それこそ、諸葛亮の如き天才でなければ、劉備の目指す理想は為しえない。
 その現実を知る前に、恥をかく事なく劉備の元を去れて、本当はほっとしているんじゃないか?
 この――――
「徐庶様?」
 に声をかけられ、意識を遠くに放っていた徐庶はびくりと肩を震わせた。
 訝しげな視線を受けて、ようやく徐庶は自分が悪夢のような白昼夢に囚われていた事に気づく。
「ともかくも、鳥籠の生き方を早く覚えられると宜しいでしょう。ここは決して安全な場所ではないと、ゆめゆめお忘れなきよう」
 それでは。
 はぺこりと小さく頭を下げると、徐庶の隣りを通り過ぎて行った。
「あっ、待っ……!」
 ぱしり、と思わず徐庶はの手を掴んでしまったが、
「まだ何か?」
 訝しげなの双眸を前に言葉はうまく続かず、するりとその手の平からの手を放したのだった。



end


徐庶は飛びぬけた天才と言うより、努力の人な気がします。
水鏡先生の下で出会った学友たちに、
絶大な尊敬とちょっとした劣等感を感じてたりしたんじゃないかな、と妄想。