言い訳は何一つ通じなかった。どんなに自分たちは無関係だと、が自ら己の頬を裂いたのだと訴えても、男たちの処遇に変わりはなかった。
は夏侯惇が現れてから、何一つ口にしなかった。ただひとり、どこか遠くからその光景を眺めていた。
その様はまるで鳥籠の中から人間を観察する鳥のようにも見え、徐庶はどこかはっきりとしない暗い気持ちが薄暗い群雲のように心に広がるのを感じた。
番いの鳥03
「まったくお前は無茶をする」
鳥籠に戻されたにかけられたのは、いつも通り夏侯惇の溜息交じりの苦言だった。
心優しい隻眼の将は、いつも何かと心を砕いてくれるが、時たまそれを煩く思うのも事実。にとっては可愛がるだけの飼い主に代わって、ちゃんと世話をしてくれる人間というだけで、鳥籠の向こうの人間である事には違いない。
「もしあそこに通りかかったのが、別の者だったらどうするつもりだった? 孟徳の耳に直接入れば、お前とてただでは済まされんぞ」
「その時はその時です」
のそっけない言葉に、夏侯惇は再び溜息を漏らす。
そう言いつつも、が狙って自分を招いた事を夏侯惇は知っていた。あの時間帯に自分があの辺りを通りかかることは日課になっていて、それをは知っていたのだ。頬から血を流すを目にした時、夏侯惇は瞬時に何が起こったのか理解したのだ。
理解した上で、男たちを罰した。が血を流すまでそれなりの理由があったのだから理不尽な決定だとは思わないが、正しくはない。
曹操の権威をこういう形で利用するのは、とうてい褒められる事ではないのだ。それでも、うまく夏侯惇が処理しなければ、更に面倒な事になると理解して、仕方がなくの思惑に乗ってやったのである。
本音を言うならば、小賢しい小娘め、ともっと自分の立場を自覚させたやりたかった。だが、困った事に曹操はこういう小賢しい女が大好きなのだ。自分を出し抜くようなしたたかさを、美貌の下に隠したような女を、従順に傅く女よりも何倍も愛している。
自分に牙を向けない限り――――否、仮に牙を向けたとしても、鳥籠の中にいる以上、それは曹操の収集品のひとつでしかないのだ。
だから、この女は曹操のお気に入りに上り詰めた。
そして、その権威を笠に着て、面白い事をしては曹操を楽しませるのである。
「ところで、あの男と何を話していた?」
やれやれと肩をすくめてから、夏侯惇は徐に話題を変えた。
「あの男……劉備の元から連れて来た男だな?」
劉備の名を口にする瞬間、夏侯惇は一瞬声音を低くした。本人さえも気づかないその差異に、はちらりと夏侯惇の顔を見やり、べつに、とそっけなく返す。
「新入りさんにここでの処世術を教えようとしただけです。あの人……自分がどんな風に周りから見られているか、まるで自覚がないようだったから」
きっと本人は、どうしてあんな目に遭うのかまるで分かっていないのだろう。自分のような凡夫につっかかって何の利益があるのだと、不思議に思っていたに違いない。
だが、皮肉にも徐元直の評価は彼が自覚するよりも遥かに高い。それはたった一度の戦の功績以上に、曹操の寄せる関心が招いたものであるのだ。
だからこそ、ここでの生き方は考えねばならない。
美しく歌い、軽やかに羽ばたかなければ、気づいた時には肉切り包丁で首を落とされ鍋の中――――なんて事になり兼ねない。
「そうか」
夏侯惇は静かに頷きつつも、じっとの顔を見据えていた。
同じ鳥籠の鳥に向ける同情以外のものがあるのではと勘繰ったようだったが、夏侯惇にはその無表情の下に隠されたものがなんであるか、見抜くことは出来なかった。
「あははあ。こりゃあ傑作だ。まさかお姫様にあんたが助けられるなんてなあ」
「笑い事じゃないよ」
どこから聞きつけたのか、件の事件を耳にした賈詡は徐庶の元を訪れて面白そうに手を叩いて笑った。
どうにもあの酒宴の日から、賈詡には何かと付きまとわれているような気がする。自分と交友を深めたところで彼の益になるものが与えられるとは思わなかったが、この絢爛で居心地の悪い魏の城の中では、多少なりとも気心の知れた存在になっていた。
「ま、お姫様にどんな思惑があるにしろ、目障りな連中を一掃できたんだ。他の奴らもあんたに突っかかるとえらい目に遭わんと理解したらしい。一石二鳥じゃないかね」
「俺は何もしていないけれどね」
そう。何もしていない。
もう少しで劉備を罵った彼らを撃剣の錆にするところではあったが、徐庶が剣を抜く前にすべての片がついてしまった。
結果的に見れば良かったのだろう。仮に自分が曹操に目をかけられているのだとしても、さすがに流血沙汰を起こしておいて無罪放免とはいかなかっただろう。自分の身はどうなっても構わないが、老いた母にまで類が及ぶような事があると考えれば、本当に剣を抜かなくて良かったと思う。
しかし、やはり解せないのはのあの行動だ。
なぜ、あんな風に――――自分を傷つけてまで徐庶を助けてくれたのだろう。
「さあなあ。しかし、美味しい役じゃないかい? 事によっちゃ若いツバメになれるかもしれない」
「俺はもう若くはないよ。というか、お気に入りに手を出すなと君が言ったんじゃあないか」
「状況が変わったのさ。お姫様に気に入られる分には悪くない。ここじゃあ、何かと役に立つだろうさ」
「俺はそんなものはいらないよ」
確かに、曹操のお気に入りが後見についてくれるなら、何かとやりやすくはなるだろう。出世になど興味はなかったが、百官を抱えるこの才能の宝庫で、要職に就くためにはそういったコネが物を言うのに違いないのだ。
しかし、徐庶にそんな気持ちは毛頭ない。そしてあの女の方にも、徐庶に何か見返りを求めているようにも思えなかった。
それよりも、躊躇いなく頬を切り裂いた、あの冷徹さを不安に思った。
徐庶にとっての知がそうであるように、を鳥籠の鳥たらしめているのはあの美貌と楽の才だ。もしそれに疵がつくような事があれば、もしかしたら曹操の寵愛を失ってしまうかもしれないのに――――
どんな体験をすれば、眉根も動かさず女が自分の顔を傷つける事ができるのか、徐庶にはまったく分からなかった。