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 娘の名はと言った。
 姓は告げなかったが、かつて朝廷を牛耳った十常侍の縁の者であるらしいと賈詡は説明した。
 その事情だけで、娘がどういう来歴でここに来たのか知れたようなものだった。
 この時代、政治であれ戦であれ、争いに負けた一族の末路は目に見えている。十常侍の縁者として処刑されるはずだったを、曹操が保護し、自分の元へ置いたのだ。
 名目上はお抱えの楽師であるようだが、その実は知れない。あの美貌に琴の音が付いてくるのならば、曹孟徳が早々に寝所に招いていてもおかしくはない。
「ま、お姫様にしちゃ複雑な気持ちだろうなあ。仇の男の囲われて、日がな一日琴を奏でてるんだ」
 それこそまさに鳥籠の鳥。
 少しだけ、自分に似ていると徐庶は思った。捕らえた軍師に策を練らせるのも、捕らえた姫に琴を弾かせるのも、曹操にしてみれば鳥のさえずりのようなものなのだろう。
「ともかくも、あのお姫さんには近づかないことだ。曹操殿の妾に手を出して……生きてる男はいないさ」
 まるで徐庶の女への関心をすべて断ち切るように、賈詡は意図的に妾という言葉を使ったのだった。




番いの鳥02





 引っ繰り返ったたらいの水を頭から被った時も、徐庶の心はこんなものかと冷めていた。
 よくあることである。
 水鏡先生に師事していた時も、こういう下らない輩はいたものだ。己に妬むほどの才があるとは思っていないが、他人はそうは思っているらしく、徐庶のある種達観したような物の見方を快く思わない連中がいる。若い頃は徐庶も血気盛んであったが、今となってはわざわざそれに怒ろうという気もおきない。真に仕える事のない、曹操の元であるならば尚更だ。
 とはいえ、
「いい気になってるんじゃあないぞ、青二才が」
 こうして数人の男に囲まれて、胸ぐらを掴み上げられる状況はごめん蒙りたい。
「少しばかり曹操様の覚えがめでたいからと言って、貴様は劉備の元軍師だろう! この魏ででかい面ができると思ったら大間違いだぞ!」
 いつ自分がでかい面をしたのか、いい気になっているのか問い正してやりたかった。悲劇の姫君ぶるつもりはない。だが、自分だってこんな場所へは来たくなかったのだ。
「だんまりか。ふん、そういうこずるいところは劉備にそっくりだな。曹操様にすりよって、吸い尽くすだけ吸い尽くしたら裏切るつもりか」
 徐庶はわずかに顔をしかめた。
「小役人の分際で身の程知らずが。ど田舎のむしろ売りごときが、曹操様と同じ場所へ立とうなど心得違いも甚だしい」
 自分への誹謗中傷はいくらでもすればいい。だが、劉備への冒涜は聞き捨てならなかった。劉玄徳は仁徳の人だ。それこそ――――曹孟徳とは比べものにならない。
「訂正してもらおう」
 徐庶の低い声に男は少しだけ驚いた顔をした。凡庸としたその表情に、獣のような鋭さが宿ったのだ。
「はっ、なんだその顔は。何度でも言ってやるさ。劉備など所詮、取るに足らぬ小役人。高祖の名を騙る奸臣よ!」
 言い放った瞬間、徐庶の手は腰にくくりつけた撃剣へと伸びていた。この位置ならば一撃で仕留められる。事を成した後、死体の始末など考えていなかったが、それよりも早く徐庶の眠っていた激情が牙を剥いた。
 だが、
「お待ちください」
 琴の音に似た、細いながらも凛とした声が響いた。
 驚いて撃剣を手にしたまま視線をやると、絹の衣を幾重にも羽織った女が少しばかり離れた所で一同を見つめていた。
 あの日、悲しげな旋律を奏でた鳥籠の鳥だった。
「お前……いや、あなたは」
 途端に男たちの威勢がなくなった。
「その方に用がございます。この場はお引き取りいただけますか?」
「しかし……このような男とあなたを二人きりには……」
「心配いりません。お話をするだけです。曹操様のお膝元で、その方も変な気など起こさないでしょう」
「しかし……」
 男たちの案じているのは、女と徐庶が二人きりになることなどではない。曹操のお気に入り、その女に今あった事や自分たちへの不利になる情報を入れたくなかったのだ。
 男たちが動かない事を悟り、女はふうっとため息をついた。
「では、こう言いましょう。その方と私を二人きりにしなさい」
「ぐっ……」
「行きなさい。あなた達に命じているのです」
 驚くべき光景だった。たかだか楽師に命じられ、悔しそうに唇を噛みしぶしぶと男たちが動き始めるのは、徐庶に驚愕を与えた。
 曹操のお気に入りとは、飾りではないのだと目の当たりにした瞬間である。この場所では、実際の身分だけに限らず、如何に曹操に近しいかが力を発揮するのだった。
 だが、去り行く男の一人が声にならぬ声で、小さく言葉を紡いだのを徐庶は目にした。
 売女めが。
 男は確かにそう口にした。
 瞬間――――女の袖下から小さな刀が現れた。まさかそれを男に向けるのかと徐庶が息を飲んだ瞬間、あろうことか女はそれで自分の頬を切り裂いたのだった。
「なっ……!?」
 女以外の全員が絶句したその瞬間、突如鋭い声が遠くから響いた。
「そこで何をしている!」
 兵を率いた、隻眼の男――――夏侯惇だ。
 あの男がこの光景を目にしたらどう思うだろうか。ずぶ濡れの徐庶と、頬から血を流す、そしてそれを傍観する男たち。
 辞去を許さぬ威圧感を纏って夏侯惇が近づいてくる。
 怯えた男たちの顔と驚いた顔の徐庶を一瞥し、は鮮血の付いた刀を地面に放ったのだった。



end


魏に仕官した後、徐庶はけっこう出世していますが
色々苦労があったんじゃないかなぁと思います。
曹操はああいう人なので、寵を得るために男も女も、
どろどろの愛憎劇を繰り広げてそう。