番いの鳥
この場所はめまぐるしい。
豪奢な宮殿に、錦を重ねた豪勢な衣。贅を尽くした酒肴に、見目麗しい美姫たち。
あまりにも眩しくて、絢爛で、騒がしくて――――自分にはとんと馴染めぬ世界だと感じた。
曹孟徳は人というものを理解している。
彼は決して理想家でも、仁徳の人でもなかったが、人の心を操る天才だった。如何に人の心を打つ言葉を混ぜるか、交渉の場において如何なる態度、言葉、視線で対峙すべきか知る賢い男である。
彼の周りに傅く者たちは、決して曹操の財力や武力にのみ惹かれたものではない。そんなものよりももっと強く、曹孟徳という人間は人を誘うのだ。
だが――――
こうして曹孟徳を囲う人垣の中に自分が紛れてみると、確かにそれは一つの人望であったが、自分の性質とはどこか異質である事に気づく。
この世界は自分には目まぐるしい。
豫州の片田舎で生まれた自分には、とうてい都の生活など馴染めない。自分には、劉玄徳のような素朴だが、温かみのある人の方が落ち着くのだと、つくづく思った。
この仕官は決して徐庶の本意ではない。母が曹操に保護という名の人質にされ、半ば騙されるように徐庶は曹操に仕官した。
母はなぜ曹操などに仕えるのかと怒ったが、それが策だと知っていても自分には老いた母を見捨てる事など出来ず、大義の前に非情になりきれぬ自分はやはり諸葛亮のような非凡な才には届かぬのだと感じた。
だが、一度は主君と認めた人だ。仮に曹操軍の軍師として戦場に立つことがあったとしても、自分は決して曹操へ献策などしないだろう。それは劉備への義理立てでもあり、そしてどこか――――自分の才への諦めでもあった。
「せっかくの美酒だ。味わわなきゃ損ってもん、だろ?」
ふいにぽんと肩を叩かれ徐庶は顔を上げた。
口ひげを蓄えた細身の男が、酒瓶を手に徐庶の隣りに立っていた。藍色の布を頭に巻いた正体不明の風貌をしていたが、微笑みの中でも曇らぬその鋭い眼光を見て相手が自分と同じ職業なのだと知る。
確かは名は――――賈詡と言ったか。
「あんたが有名な徐庶殿か? 俺は賈詡ってもんだ。ま、ここは一つお見知りおきを」
賈詡は少しだけ目元を緩めると、勝手に徐庶の杯に自分の杯をあて、ぐっと中身を飲み干した。
相手が飲んだのだから自分も飲まねばなるまい。弱い質ではないか、こういう場での酒は気が進まないと思いつつも、徐庶は黙って杯を仰いだ。
「おっ、いけるクチだね」
賈詡は嬉しそうに顔を綻ばせると、二つの空の杯に並々と透明な液体を注いで、再びぐっと飲み干す。なんだか乗せられている気もしなくもないが、そんなやり取りを二人で何度かし合い、ようやく賈詡は徐庶を“話せる相手”と見込んだのか語り始めた。
「あんたのお噂はかねがね。なるほど、曹操殿が欲しがる御仁だ」
「……俺はそんなに有名なのか?」
「有名かって? はっ、新野城でうちの将たちを蹴散らしたじゃないか」
劉備の元で曹操軍と戦を交えた時の話だ。新野で曹仁・李典率いる五千の兵を、たった二千で追い返したのだ。
と言っても、徐庶自身はそれがそれほどすごい事だとは思わない。たまたま相手方に、自分の策を見破る者が居なかっただけのこと。もしも名のある軍師を――――そう目の前の男を従軍させていたら、きっと自分はこうして曹操の目に留まることもなかっただろう。
「ま、あんたにとっちゃ、あんまり嬉しい評価じゃないか。こうして今や囚われの身。鳥籠のお姫様ってわけだ」
「やめてくれ」
賈詡の揶揄に徐庶は眉根をしかめる。
だが、賈詡は口を閉ざさなかった。
「いやいや。この場所じゃあよくある事さ。才ある者、力を持つ者。貴賎に関わらず自分の脅威になり兼ねない人間は、誰でもあのお方は欲しくなっちまう。それで捕まえてきちゃ、鳥籠で飼うのさ」
賈詡の鋭い視線に徐庶はぞくりと背筋を振るわせた。
「懐くのなら籠から出してもらえるかもしれんがね。懐かなけりゃ一生籠の鳥。生かさず、殺さず。緩やかに老いていくのを、ただ黙って見続ける。あの人はそういう、蒐集家なのさ」
ただの比喩であるはずなのに、徐庶には部屋中に鳥籠を飾る曹操の姿が容易く想像できた。
愛するからこそ裏切りは許さない。己にはむかう様な生意気な奴は、腕も足も千切って、舌を切って啼けぬ様にしてやればいい。
それを、決して狂気ではなく、正常な精神でやってのけるのだろう。
曹孟徳は恐ろしい男だ。
「おっと、本物の鳥籠のお姫様のご登場だ」
徐庶が唖然と賈詡を見つめていると、賈詡がちらりと視線を部屋の奥へとやった。
倣うように徐庶も視線をやる。
舞台の袖の方から煌びやかな衣を纏った女が、楽師たちを引き連れて姿を現した。
楽師たちは女を取り囲むように座り、女は舞台の中央に置かれた琴の前で止まった。恭しく傅くと、細い指先で弦を弾き始める。すると今まで潮騒のように騒いでいた人々が、まるで潮が引くように女の方へと注意を向けた。
指先から生み出される清廉な美しさと、悲しくなるくらいの切なさが胸を満たす。
まるで――――月の光があの指先から流れ出でているようだ。
「すごい……」
演目が終わった後も、徐庶は呆然と舞台の女を眺めていた。
何か身体の奥の大切な部分を、揺さぶられたような気がした。美しい音楽が、こんなにも人の心を無防備にさせるのかと驚いたのだ。
だが、賈詡は首を横に振ると、あの女は特別さ、とどこか皮肉交じりに答えた。
「言っただろう。あの女も鳥籠の鳥の一人。曹操殿の大切な収集品だ」
「それじゃあ……」
徐庶の想像を肯定するように、賈詡はゆっくりと頷き返すと、
「とりわけあれは曹操殿のお気に入りだ。くれぐれも……変な気は起こさない方がいい」
end
エンパでお目見えしたばかりですが、
じっくりゆっくり書いていきたいと思います。