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 それはまるで花開くように――――
 そんな陳腐な表現が脳裏に浮かんだ。
 今まで閉じていた蕾がふっと柔らかに開くように、微笑みを湛えた笑顔がこちらに向けられたから。
 だが、それは自分の身体を素通りして通り過ぎてしまう。
 微笑みも、呼び声も、伸ばして手も――――すべて、まるで己が空気か影になってしまったように、すっとすり抜けて行ってしまうのだ。
 微笑みながら足早に駆けていく後姿を、思わず名残惜しそうに振り返ってしまった事が自分自身でも予想外で――――ふいに驚いた顔で口元を押さえた。




笑ったと思ったら、
それは別の人にで





「それは恋だね」
 と、したり顔で告げた。
 いつものにやにやと笑みを浮かべた小賢しそうな顔で、官兵衛の文机に頬杖を付きながら半兵衛は言いのけたのだ。
「茶化すな」
「だって面白いもの」
 けたけたと笑う半兵衛を、官兵衛はいつもの暗く不吉な凶相で睨みつける。
「そういう事があったと事実を述べたまでだ。何でもかんでも色恋に結びつけるとは、短絡的すぎる」
「そうかなぁ」
 半兵衛は小首をひねって怪訝な顔をした。
 確かに異性に対する感慨にすべて情愛が働いているとは言わない。が、かの冷徹軍師こと黒田官兵衛の口から、執務中の他愛もない会話とはいえ女の名が出てきたのだ。これを色恋に結びつけずに何とする。
 娘の名は。以前より羽柴家に仕える侍女の一人で、官兵衛が秀吉の軍師となってからは、あれこれと身の回りの世話をするようになった。
 元々顔見知りではあったわけだが、だからと言って特段気にした事はなかった。いつも執務室で顔を合わせているのだし、たまたま庭先で姿を見かけただけ――――それだけの事に過ぎないはずなのだ。
「だって思わず振り返っちゃったんでしょ? それ、気になったって事じゃん」
「反射だ」
 なんの反射だよう、と半兵衛はぶうたれた。
 だが、実際のところ、なぜ振り返ってしまったのか、自分でもよく分からないのだ。
 一陣の風のように通り抜けた瞬間、ふっと何かを取りこぼしたような感覚に見舞われた。
 だから――――それを取りこぼさないように、振り返ったとでも言うのか?
 馬鹿馬鹿しい、と官兵衛はわずかに自嘲的な笑みを浮かべた。
 余人には決して分からぬ官兵衛の心情の変化に、半兵衛はやれやれと肩をすくめて見せる。
「官兵衛殿ってば、どんかーん。そんな事もわかんないなんて軍師失格」
「なにがだ?」
 喪失感の正体――――否、喪失感を覚えたことすら、官兵衛は気付いていなかったのだろう。
 素直に不思議そうな顔を半兵衛に向ける。
 名軍師なんだけどねぇ、と誰にこぼすともなく独りごちると、半兵衛は官兵衛の鼻先に指先を突きつけた。
「寂しかったんでしょ。が笑いかけたのが官兵衛殿じゃなくって」
 その後ろにいた誰か。
 どこか別の、官兵衛が名も知らぬ誰かに、を奪われたようで――――
 まるまる一瞬、官兵衛は押し黙って、
「馬鹿な」
 と、一蹴した。
 ここで動揺でもすれば可愛げがあるものを、この黒衣の軍師はこれくらいの事では揺るがないのだ。
「詰まらぬ憶測で人を推し量ろうとするな。そのような下らぬ情は持ち合わせておらぬ」
「下らぬってねぇ、」
 言いかけた半兵衛の言葉を、無駄口を閉じていいかげん働け、という叱責で押し潰し、官兵衛は視線を書の上に戻した。
 文字を綴る筆に乱れはなく、思考も書面の政に注がれている。
 揺るがない。
 この冷徹軍師の心には波紋すら、広がらないのだ。
 そんな官兵衛を半兵衛は遠目に眺めるようにして、可愛くないのっと小さく呟いたのだった。




 そんなやり取りがあった事さえ忘れた頃、とある戦にて官兵衛は背に矢傷を受けた。
 致命傷ではないが動き回るには幾日かの休養がいると匙の診断を受け、屋敷に戻ってからも養生生活を余儀なくされた。
 そんなある日のこと――――
 ふと、襖の開く微かな気配を感じて、官兵衛は目覚めた。
 手負いのところを襲いに来た曲者かと、しばし反撃の方法を模索していたが、気配は部屋の端に留まって一向に動かない。怪訝に思いわずかに瞳を開くと、顔を俯かせた娘が襖の前に鎮座していた。
 珍客の来訪に、官兵衛は眉根をしかめた。
「……何をしている」
 と、声を押し殺して問うと、まさか官兵衛が起きているとは思わなかったのか、は飛び上がりそうなほど大げさに肩を跳ねさせた。
「官兵衛さまっ……お目覚めに……?」
「曲者が居る部屋で眠るほど豪胆ではない」
 皮肉とも取れる官兵衛の言葉に、は身体を小さくさせると、消え入りそうな声で申し訳ございません、と呟いた。
「何用だ。お前には政務の手伝いを命じたはずだが?」
 いくら官兵衛付きの侍女とはいえ、四六時中病人に付き添っているわけにも行くまい。には執務の補佐も命じている。官兵衛に代わって半兵衛の手綱をしっかり握っていてもらわねば、あの軍師はすぐに昼寝に行ってしまうのだ。
 官兵衛の叱責にはますます身を小さくさせた。
 だが、きゅっと膝に乗せた両手を握り締めて、
「どうか官兵衛様の……お側にいさせていてください」
 の瞳から透明な雫がぽろりと零れ落ちた。
「官兵衛様がお怪我をされたと聞いて……私っ、とても恐くて。本当は今も、恐ろしいのです。私が居ない間に、具合が悪くなられていないか、どこか痛んだりしないか……」
「……命に別状はないと、前も説明した」
「でも……私には、戦も、血も、怪我も、どこか遠くて……」
 恐ろしいのです――――と、は押し殺した声で呟いた。
 何を馬鹿な事を、と言い掛けて官兵衛は口を噤んだ。
 昔から秀吉に仕える将を戦に送り出し、そして帰りを待ち続けたならば、それは正しい感覚なのかもしれない。戦塵も戦火も戦傷も、すべて男達の纏う殺伐とした気配からしか感じられないのなら、それは想像の中でどんどん大きく、恐ろしいものへとなってしまうのだろう。
 見えないところで人が死ぬ。遠いところで戦が起きる。
 傷ついた兵と物言わぬ躯を迎え入れてきたにとって、無事な姿を確認できない事はとても不安なのだ。
 頬を伝い落ちる透明な雫を見ながら――――
 この娘は、笑った方が美しいと、ぼんやりと官兵衛は思った。
「案ずるな」
 が涙に濡れた顔を上げた。
「私は死なぬ。何度でもお前の元に戻ってくる」
 だから――――
 何と言おうとしたのか。
 自分でも分からぬままに、中途半端に開いた唇が言葉を失う。
 いつか半兵衛が言っていた戯言を脳裏で思い出しながら、
「だから、お前は泣くより笑っていろ」



end


キリバン23444のリクエスト、ツンデレ官兵衛によるぎこちない甘い夢でした。
ちゃんとツンデレ、ぎこちなくなってる……かな?
ちょっと書き辛かったため、お題に逃げてしまいました。。
ご要望にお応え出来ていなかったらすみません!
リクエストくださった方、ありがとうございました!