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 力山を抜き 気世を蓋う
 時利あらずして 騅逝かず
 騅の逝かざる 奈何すべき
 虞や虞や 若を奈何せん

 『史記』巻7項羽本紀 「垓下歌」




倫理だとか道徳だとか04




 五限の漢文の授業ほど、驚異的に眠気を誘うものはないのではと思えるほどに、教室内の生徒たちは次々と眠りの淵へと落ちていった。
 窓際に座るも午後の心地よい日差しにうつらうつらとなりながら、半兵衛の漢詩が耳に届くたびに、眠ってはいけないとうな垂れかかった頭を持ち上げる。
 教壇の前に立つ小柄なスーツ姿。昼休みにどこかで昼寝でもしていたのか、背広には痕が残り、髪にも寝癖が出来ている。
 よく見ていると、教科書を読みながら、自身もくあぁと欠伸をかみ殺しているようで、は思わず笑みを零した。
 ――――と。
「では、ここの一文、誰かに訳してもらおうかな。えっと今日の出席番号は……」
 名を呼ばれた生徒が、眠そうな返事を返し、模範的な回答を答える。
「はい、ありがと。項羽にとって虞美人はどんな時でも共に置いた掛け替えのない人だったわけだね。でも、決死の戦をしかけるには、彼女が足手まといになってしまう。そんな時にお前をどうしたらいいだろう、と詠んだこの詩には、項羽の嘆きが込められているわけだけど、そこで虞美人は次の返歌を返します」
 虞美人の返歌が、半兵衛の唇から紡がれる。
 この詩は四面楚歌の成語の元となったもので、この詩を詠んだ虞美人は――――と、半兵衛が解説を加えているが、の耳には意味をとどめず通り抜けていく。の意識はただ、半兵衛の怜悧な顔へと向けられていた。
「と言うわけで、虞美人はこの後、自ら命を絶ってしまったわけです。さて、ここで問題。この虞美人の血が流れた箇所に翌年美しい花が咲いて、虞美人草と呼ばれるようになりました。この花とは何でしょう。ぼんやりしているさん?」
「えっ? あっ――――
 驚いて思わず教科書を取り落としてしまった。
 起きていた生徒たちが、あはは、とからかう様に笑っている。耳の先まで真っ赤になりながら、はひどい、と胸中で呟いた。 。
 授業を聞いていなかったわけではないが、これではまるでが居眠りでもしていたようではないか。そもそも虞美人草がなんなのかなど、ただの豆知識ではないか。教科書に載っていないし、テストにも出るはずがない。
「わかりません」
 冷静を装って答えると、半兵衛は大げさなまでに肩をすくめてみせた。仕方がないなぁ、とさも落胆したような口調で、
「それじゃあ、分からなかったさんには、次の授業までの間に調べておいてもらおうかな。ネットで調べればスグだけど、せっかくだし図書室で調べて図鑑を借りておいてもらえる?」
「え」
「大変なら、誰かに手伝ってもらってもいいけど?」
 その言葉に、を見ていた他の生徒たちが一斉に視線を反らす。
 まるでこうなる事を予測していたかのように、半兵衛は目を細めて笑った。彼の本来持つ無邪気さに、いささか意地の悪いものを感じながらは渋々と応答した。





「やあ、待たせちゃったかな?」
 放課後。生徒指導室へやって来た半兵衛は、部屋の中央で座って待っていた三成が、半兵衛を睨み付ける様な目で彼を見たのに気づいた。
 べつに、とそっけない応答だが、これは律儀に時間通りにやって来て苛立っている顔だろう。さっそく三成のクールな顔に傷をつけれた事に、内心にんまりとほくそ笑む。わざわざ十五分遅れて来た効果があったわけだ。
「ごめんねぇ。三組のさんの質問に付き合ってたら遅くなっちゃって」
 その名を出すと、三成の形良い柳眉がわずかに動いた。
 ビンゴ。胸中で手を叩く。
 あえてそれ以上は言及せず、半兵衛はさっそく生徒指導という名の尋問を始めた。
――――そういうわけでね、実際のところどうなのかなぁって思って呼んだんだよ」
「……くだらない」
 三成の反応は予想通りだった。当然だろう。こんな事は誰でも事実無根だと思っている。だが、半兵衛はわざと、そうなの? と驚いた様子を見せた。
「じゃ、石田君は付き合ってるコいないんだ」
「先生にそれを話す必要があるんですか?」
「いやいや。べつにいいんだよ。ちょっと意外だっただけで。だって、男子高校生ってイロイロ大変だから」
 含みを持たせて話す。何がだと言いたげな苛立たしげな三成の視線が、半兵衛に突き刺さる。
「高校生って多感な時期じゃない。家でも学校でもムカつく事だらけ。俺も毎日イライラしてたなー。ま、彼女の一人でもいれば違ったのかもしれないけどさ」
 お前の話なんて聞いていないとばかりに、三成の視線が険しくなる。
「先生、用が済んだのなら帰っても構いませんか?」
「まあ、そう言わずに。これでも俺は男子の気持ちは理解してるつもりだよ? 男のメンドくさい身体の事も、お母さんに言えないあーんな事もわかってるつもりなわけ」
「………」
「だからさ、余計に意外だったって言うか。君って意外と真面目だよね。他の子だったら……てきとーにカノジョ作ってセックスすると思うけど」
 三成の睨み付けるような視線に、汚らわしいものを見るような不快感が混じる。童貞でもあるまいし、と半兵衛は心の底で笑ってしまった。
「……ふつう教師が生徒に、そういう事を言いますか?」
「さぁ。他のヒトのことは知らないけど、黒田センセーだったら絶対言わないだろうねぇ。でも、俺はさ、ぶっちゃけそれってあんまり悪い事だとは思ってないんだよね。せっかく青春まっさかりなんだから、一つや二つ甘酸っぱい思い出があったっていいじゃない。むしろ抑圧する方が健全じゃないよ」
「………」
「あ、でも、べつに不純異性交遊を勧めてるわけじゃないからね? ちゃんとゴムをつけようねー、なんて。でも、もし君に好きな子の一人でもいるなら……そーゆー事があってもいいんじゃないかなぁって。なんか君って窮屈そうだから、ただ思っただけだよ」
 三成は無言で席を引くと立ち上がった。すたすたとドアの方まで歩いていき、失礼します、と律儀に頭を下げる。その抜けきらない真面目さに、半兵衛は唇を緩めつつ、
さん」
 一瞬、三成の視線が射抜くような鋭さで半兵衛を睥睨した。
「家に帰るなら、声かけてあげてよ。図書室にいるからさ」
 何か言いたげな、不信感を露わにした顔が半兵衛を見つめる。
「ほら、最近は日が落ちるのが早いでしょ? 一人歩きは危険だよ」
「……わかりました」
 教師の言葉として飲み込んだのか、三成は警戒を向けつつ応じた。
 それじゃあ、とドアが閉められて、半兵衛は堪えていた笑みを爆発させるように破願した。閉じられたドアの方に視線をやりながら、
「せいぜいよろしくね、おにーちゃん」




end


半兵衛は国語教師。
『虞美人』は特に関係ないけど、
高2の漢文なんてそのくらいしか覚えてなかった。