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恋花前話03





 再び月夜の晩が静寂を取り戻したのは、それから小一時間ほど後のこと。
 ァ千代の投げつけた枕が宗茂の後頭部に当りそこで夫婦喧嘩が勃発し、半兵衛がニヤニヤしながら茶々をいれたり、元就とがまあまあと宥めたりして、何とか丸く収まったのがつい先ほどの事なのだった。
 私はもう疲れたよ、と退席した元就に代わって、半兵衛の隣にはが腰掛けている。
 と言っても、冷めた酒を飲むのでもなく、二人して月を見上げてぼんやりとしているだけだ。どことなく手持ち無沙汰になって、が半兵衛をちらりと見やると、半兵衛は未だ機嫌が直らないのか詰まらなそうな顔。
 そして、
、お酌して」
 差し出された空の猪口に、は黙って透明な水を注いだ。
 月夜は静寂を宿し、草木を揺らす風の音と季節を告げる虫の音だけが響き渡る。
 とくとくと注がれた酒に月を映して、一気に飲み干す。そんな事を二度三度と繰り返すうちに、半兵衛の目の端がほんのりと赤く染まった。
 酒より餅を好む半兵衛が、人並みに飲むところを始めて見た。
 いつも無邪気でどことなく騒がしい印象のある彼が、こんなに静やかに粛々と酒を楽しむ姿というのは、なかなか想像しにくい。
 歳相応の大人の顔もするのだと、その横顔に見入っていると、ふいに半兵衛の顔がこちらを向いた。
 笑っている――――
「ね、俺の顔に見惚れてた?」
 胡坐をかいた膝に頬杖をついて、斜めに見上げるようにしての顔を見つめている。
 普段の半兵衛を陽とするならば、今の半兵衛は陰だ。太陽の光を受けた月のように、元は同じ光だというのに、妙に静かで危うげな印象を与える。
「ねえ、
 床の上に手を付いて、半兵衛が身を乗り出した。
 朱の刺した目元が妙に艶っぽい。視線はどこか胡乱で、酒の酩酊感が雰囲気に溶けて、こちらまで酔わせるような妖しげな気を放っている。
 誘うような猫の目、悪戯っぽい笑みを浮かべた顔、月光を浴びて白く輝く首、鎖骨、指先は細く精巧に作られた陶器のようで――――
「はい」
 と、は素直に答えていた。
 視界の向こうで半兵衛が微笑んだ。
 そのまま、伸ばした指先がの唇を撫でて、酒気の熱に潤みかけた瞳がゆっくりとの方へと近づいてくると――――
「……綺麗」
 は素直に感想を漏らしていたのだった。
 その瞬間、まるで風船の空気が抜けるように、半兵衛の体がべちゃっとその場に崩れ落ちた。
「半兵衛様?」
「綺麗……綺麗って、あのねぇ」
 半兵衛にしてみれば、とんだ肩透かしだろう。
 そんな事を言って欲しいのではない。口にするなら格好良いとか男前とかだろうし、というか、ここは空気を呼んで、黙って目を閉じるか、身体を預けるかのどちらかだろう!
 それこそが正しい恋愛の受け答え方だと思うのだが、はさっぱりそれを解さない。
「せっかく誘ったのに、俺が馬鹿みたい」
 ああ、もう! と半兵衛は投げやりに叫ぶと、猪口を放っての膝の上にごろりと頭を預けた。
「え、っと……半兵衛様?」
「いいから。俺をがっかりさせた罰。あと宗茂に苛められたから慰めて」
 なにやら勝手な事を言っているが、膝に乗っかった頭をどうする事も出来ず、はそのまま半兵衛の意図に従った。その恥じらいもない従順さと純粋さに、少しばかりがっかりしながら、半兵衛はねえ、とに呼びかける。
「どうしてお嫁に行きたくないの?」
 昼間の冗談話の続きだった。
 戯れに聞かれただけだろうに、の言葉には真実味があった。
 妙な決意。
 本当はその理由を知っている。の血に宿る常世姫の力――――それを広めぬためなのだろう。
「考え直しなよ。そんな自分を犠牲にするような方法……賢くないし、不自然だよ」
「でも……」
「もっと周りの人の気持ち、気付いてよ」
 じっと真下から見つめられて、はぱしぱしと瞳を瞬かせた。
 どうせ通じて居まい。この娘は官兵衛が手塩にかけて、色恋沙汰には超絶鈍感に育てられたのだ。
 きっと気付かない。自分の気持ちにも、他の男の気持ちにも。
 どれだけ愛されて、想いを寄せられ、幸せを願われているかなど――――
 半兵衛は反応のないの顔をしばらく見上げていたが、やがて拗ねるように顔をそっぽに向けた。
「もういいよ。どうせ酔っ払いの戯言っ。明日になったら忘れちゃうし」
 の膝の上で半兵衛はごろりと身体を横にすると、不貞寝するように身体を縮めた。
 悔しいからこのまま寝てやれ、と目を閉じる。自分が寝入ってしまった後、が困る事になっても知った事か。
 深酒する事になった原因なのだから、そのくらいは責任持ってよねと胸中で呟きながら、半兵衛は心地よい夢の中へと落ちていった。





「う〜、ぎもぢわる」
 明くる朝、半兵衛はひっくり返りそうな胃を抱えて、帰路に立った。
 二日酔いなんだからもう一泊させてよと半兵衛は懇願したが、同行した官兵衛が頑として譲らなかった。
 そもそも月見酒を喰らって酩酊しただけでなく、夜中にをたたき起こして朝まで子守をさせたことに、この凶相の軍師は腹を立てているらしい。普段の不機嫌そうな顔が今朝はさらにしかめられている。
 そもそもお前も一体何をしている、酔っ払いなどに真面目に付き合う馬鹿がいるか――――と、遠くで官兵衛がを叱る声が聞こえた。
 半兵衛といえば、馬上で如何に胃を揺らさずに歩けるかに必死で、とても二人の様子をうかがう余裕は無い。
「ですが、官兵衛様。私では半兵衛様を閨まで運べませんし……」
「だったら人を呼べ。お前は戦場で孤立した時も、援軍を呼ばず独り朽ち果てる気か」
「で、でも、夜中に人を呼んでは迷惑じゃ……」
「ならば半兵衛など捨て置け。そんな気遣いがなんの役に立つ」
 この馬鹿者め、愚か者――――と、機嫌の悪い官兵衛の雑言は止まない。
 何をそんなに叱られているのかよく分からず、は小首を傾げていたが、ふいに、
「あ、でも」
 と何かに気が付いたように声を上げた。
「二日酔いの介抱は上手くなりましたよ?」
 得意げに答えたに向って、それが何の役に立つと、官兵衛は毒づいた。
 まあ、あまり役には立たないのだろう。
 屋敷にいればねねが介抱してくれるし、そもそもの周囲には大酒飲みなどいないのだし。
 だが、はふふっと笑みを零して、
「未来の旦那様が酔った時に、介抱して差し上げられます」
 と。



end


嫁に行きません宣言は撤回したようです。
でも、まだ半兵衛への気持ちは無自覚。
これにて「恋花前話」完結です。
ひよ様、リクエストありがとうございました!