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胡蝶と紅・後編





 きっと好きだったんだろうな、とその想いに気づいたのは、が同じような気持ちで半兵衛の事を見ていたからだった。
 主家の姫君とその家臣。想いを伝えるにはあまりにも遠く、障害が多いその関係は、世間一般の色恋沙汰よりももっと淡白で秘められたものに違いなかっただろう。若き日の半兵衛の事をは知らないが、きっと一方的に見守るような、そんな優しさと切なさに満ちたものだと思う。
 半兵衛は美濃時代の事をあまり語らない。泣きっ面の半兵衛であった自分を口にするのが恥ずかしいのかもしれないが、あの半兵衛にもそんな初々しい時代があったのかと意外に思うと共に、今では濃姫しか知らないその過去に少しだけ嫉妬を覚えた。
 終わった恋なのだと自分に言い聞かせても、の胸にはもやもやと黒雲が立ち込める。
 今や濃姫は信長の妻で、半兵衛には二度と手の届かない人へとなってしまったのだ。
 だから、嫉妬したり羨ましく感じてしまうのは筋違いだと思うのだが、二人がお互いを懐かしむような顔をするだけで、嫉妬と涙でおかしくなってしまう。
 立ち入れない。
 まるで二人だけの秘密を共有するような関係に、は初めから敗北を感じていた。
「姫様〜……って、あれ?」
 陣幕を押しのけて入ってきた半兵衛の姿に、ははっと顔を上げた。
「あの、姫様は……」
「ああ、いいのいいの。何でもないから」
 そう言って笑いながら手を振る仕草すら、何でもないのに会いに来るのだろうかと邪推してしまった。
 自分の醜い気持ちに嫌になる。
 二人がどんな関係であれ、自分は自分のままで居ればいいのだと思うのに――――そんな綺麗事は卑しい嫉妬の前では、容易く揺れてしまう。
 この人にとって私は何なんだろう――――
 目の前の、少年のような顔をした軍師を見やる。
 こんな成りをしているが、より一回り近く年上で、世の中の事をよく分かっている。頭の回転が早く、人の動かし方も良く心得ている。あの官兵衛ですら、半兵衛に振り回されてしまう事があるのだ。
 私の気持ちなんてお見通しなのかもしれない――――
 知った上で、知らぬ顔をしているのかもしれない。本気にならないのは、自分は子供で濃姫には及びもしないから――――
「あれ? 、化粧してる?」
 自己嫌悪の渦に呑み込まれそうになっていた所を、ふいに半兵衛の声がを現実に引き上げた。
「あ……」
 至近距離から覗きこむように見られ、はさっと頬を染めた。
「うん、綺麗だね」
 さらりとそんな事を言ってしまうのは、きっと半兵衛にとってが本気の相手ではないからだ。だが、そんな一言だけで、の心は天に昇る。
 好いている相手に褒められれば素直に嬉しい。ともすれば、と淡い期待を抱いてしまう。
 だが――――
「姫様と同じ色だ」
 天に昇った分だけ、失墜して叩きつけられる痛みは何倍にも増した。
 紅の色まで覚えているんだ。もう届かないのに。終わったはずの恋なのに。
 自分の入り込めない関係を見せ付けられたようで、胸が苦しくなる。半兵衛の視界のどこにも自分はいないのだと、思い知らされる。
「失礼します」
 と、声を絞り出すのがやっとだった。
 泣き顔なんて見せられるはずがない。は半兵衛を押しのけるようにして陣を飛び出すと、ただ闇雲にそこから離れようと走った。





「まあ、酷い泣きっ面」
 膝を抱えるようにして蹲っていたの頭上から、嘲るには妙に優しげな声が降りて来た。
 顔を上げると濃姫の姿がある。
 そういえば――――自分は護衛のくせに、濃姫を独りにしたばかりか、任を放棄して勝手に逃げて来てしまったのだと思い出す。
「も、申し訳……っ!」
「いいのよ、座ってなさい」
 慌てて謝罪を口にしたを遮るように、濃姫は声を被せると自分もの隣りに腰を落ろした。
 は濃姫の顔を見る事が出来なかった。涙でぼろぼろの顔を、どうしてこの美しい人に見せる事が出来るだろう。力任せに拭ったせいで、口紅も落ちてしまっている。せっかく好意で塗ってくれたのに、それを台無しにした事に申し開きの仕様もなかった。
 だが、濃姫は何も言わない。涼やかな顔で、じっとの横顔を見つめているだけだ。
 そして、
「顔を上げなさい。紅を塗ってあげるわ」
 濃姫の指先がの顎を上向かせた。
「言ったでしょう。化粧は女の武器なのよ。弱い女が身を守るための、最大の武器なの」
「姫様……。でも、私……」
 紅を塗ってもらう資格などない。どうすれば武器に出来るのかもわからず、また涙で流してしまうかもしれない。
 だが、濃姫はすっと指先を滑らせ、自分と同じ色をの唇に施す。
 そして、袖から別の紅を取り出すと、薬指に少し取りの瞼の上に走らせた。
「これは涙の出ないおまじないよ。泣くくらいなら笑いなさい。この紅をつけている間だけ、あなたは誰よりも強くなれる」
「誰より……も?」
「負けないわ。誰にも」
 だから、笑いなさい――――
 そう告げて、濃姫はわずかに笑んだようだった。誰よりも強く、気高い顔で。
いつも世の中を皮肉っているような彼女の、本当の強さをは見た気がした。





「ずいぶんと人が悪いのね」
 出会いがしらにそう声をかけられ、半兵衛はどう答えたものかと思案した。
 女の子を泣かせた男を糾弾しに来たというわけでは無さそうだが、意図を汲みかねてそれを質しに来たという所だろうか。
「あの子、半兵衛の事が好きなのね」
 濃姫の言葉に、半兵衛はカリカリと米神を掻いた。
 知っている。自分に向けられた尊敬の眼差しに、いつの頃からか違う色が混ざったのを自覚していた。
 だが、その純粋な恋慕に応えるには、自分はいささかとうを過ぎている。
「子供ですよ」
「あら? 子供でも女よ」
「だったら尚更、泣かせるのは……」
「泣かせるような事をするつもり?」
 どうにも濃姫と話していると調子が外れる。半兵衛は苦虫を噛み潰したような顔で、そうじゃないですって、と肩をすくめた。
 濃姫はふふふっと笑みを零す。
「向き合うのが怖いのね。知らぬ顔が崩れてしまうかもしれないから?」
 そうかも知れない。知らぬ顔で何もかも承知したような振りをしているのは、単に己が溺れてしまう事を恐れているからなのかも知れない。
「なら、いっそ泣かせてしまえばいいわ。涙の海に溺れるほどに、叩き落してやりなさい」
「姫様?」
「でも、これだけは覚えておく事ね。半兵衛」
 濃姫は己の唇に指先で触れると、妖艶な笑みを向けた。
「化粧は女の武器なのよ。紅を塗った女ほど、強い者はこの世にいないわ」




end


好きになりそうだけど本気の恋愛をするには、
抵抗を感じちゃう半兵衛でした。
これにて「胡蝶と紅」完結です!
ひよ様、ステキなリクエストをありがとうございました!
そして、遅ればせながらHappy Birthday!