暗闇に舞う蝶のように優雅で妖艶な姿に、ほうっと思わずため息が漏れる。
ここが戦場である事を忘れてしまいそうな艶やかな姿。魔王の妻に相応しき気高く、美しくも陰を負った人――――
女はの視線に気付くと、ふふっと艶を含んだ笑みを零した。
たったそれだけだと言うのに、どきりと胸が高鳴って――――
ああ、きっとこの瞳だ。この瞳に、きっとあの人も捕らわれたのだろう。
そんな事を、呆然と思った。
胡蝶と紅・前編
美濃出身である半兵衛や光秀、にとって濃姫は単に信長の妻、という以上の意味を持っている。
かつての主君・斉藤家の姫であり、むしろ信長の妻という肩書きは後からついたものに過ぎない。すでに斉藤の家は滅んだが、濃姫に対する主従の関係は、未だ繋がっていた。
故に三人は彼女を未だ『姫様』と呼ぶ。それは慣例のようでもあり、またその逆のようでもある。帰る場所のなくなった濃姫の過去を保障する、ささやかな後援のようなものでもあったかも知れない。
もちろん、それは濃姫が自ら望んだ事ではなく、三人が口裏を合わせたわけでもなく、初めからそうであったかのように続けられた“慣例”である。そこに纏わる意図や思惑など、誰も気にせぬだろうし、また知りたいとも思わないはずだ。
ただ、そうしただけだ。
元より美濃時代に濃姫と面識があったわけではないは、なおさらその“慣例”に従っただけにすぎなかった。
同郷と言えど互いに思い出話をしたいような記憶はなく、互いの家がどんな風だったかも決して語られることはない。
濃姫にしてみれば秀吉やねね以上に薄い縁だっただろう。だが、二人はどこか『姫様』と呼び、呼ばれる事で、何か特殊な関係を築いていたのだった。
「これがそんなに珍しい?」
自分に声をかけられているのは思わなくて、は反応に一拍遅れた。しかも、濃姫に声をかけられていると理解した瞬間、盛大に挙動不審に陥り、
「えっ、あ、あの……」
と、どもって濃姫を笑わせる事になった。
くすくすと鈴を転がすような上品な笑みに、まずまず恥ずかしくなっては赤面させた顔を俯かせた。
の初心な反応に気をよくした濃姫は、いらっしゃいとの手を引いて、自分の隣に座らせた。触れられた指先は白く柔らかくて、は同じ女であるにも関わらず、どきどきと胸を高鳴らせてしまった。
魔王の妻、しかもかつての主家の姫ともなれば、緊張してしまうのも無理はない。秀吉の下で軍師の真似事をしていると言えど、後ろ盾のないは今や平民と変わらない。そんな身分で、濃姫に声をかけられる事すら分不相応に思えてしまったのだ。
たまたまその日は、ねねがくのいち軍団を率いて出張っており、濃姫の護衛をが仰せ付かったのが原因だった。そうでなければ、普段は近づく事すら叶わないのだ。
今もは声をかけられなければ、ずっと一歩退いた所で、護衛の任に徹していた事だろう。
その役目を放棄し濃姫に声をかけられる原因となったのが、濃姫の手に包まれた小さな紅の入れ物だった。貝の片方のくぼみに真っ赤な紅が埋め込まれており、蓋を重ねて持ち運べるようになっている。
戦の時のための携帯用の化粧道具なのだろう。
未だかつてそんなものとは無縁だったには、それがとても珍しく映った。何より指先に紅を乗せて、唇を撫でる濃姫の姿に――――ほうっと見蕩れてしまったのだ。
「上を向きなさい。塗ってあげる」
濃姫の指先がの細顎にかけられ、わずかに上向かせた。
は戸惑いながらもそれを拒絶する事も出来ずに、唇に紅を受ける。紅をすくった濃姫の薬指が、の桜色の唇を紅く染めていった。
「化粧というのはね」
と、の唇に指先を滑らせながら濃姫が呟く。
「女にとって最大の武器なのよ」
「武器……ですか?」
それは色仕掛けを指しているのだろうかとは訝ったが、それを口にする事は出来なかった。濃姫の姿はたしかに挑発的だが、それに反して男に媚びるような弱さは皆無に見えた。
「ええ、鎧にも矛にもなるわ。覚えておきなさい」
そう告げると、濃姫は貝で出来た紅入れをの手に握らせた。
「姫様っ!」
驚くに、取っておきなさいと濃姫は笑いかけると、すくっと立ち上がり陣の外へと出て行ってしまった。
取り残されたは所在無さげに辺りを見渡し、ふと台の上に手鏡が置かれていることに気づいた。
それを手に取り、覗き込む。紅を塗った自分の顔に気恥ずかしさを覚えるものの、濃姫の言うような力強さは何も与えてはくれなかった。
end
濃姫が半兵衛の初恋の相手という設定です。
ひよ様、素敵なリクエストをありがとうございました!
半兵衛が全然出てこなくてすみません……
後編に続きます。