だけど、初めから意識するほど互いの事をよく知っていたわけじゃなかった。あの花屋には悪い噂があったし、花売りには近寄っちゃいけないとなぜか大人たちが言っていたから、同じ街で暮らしていても僕たちは会話すらした事がなかった。
だけどある日、教会に花を届けに来たあの子が僕の絵を見てこう言った。
「綺麗な色ね」
絵ではなく色の事を褒められたのが意外だった。そして何より、こんなにも花と笑顔の似合う子なのだと、僕は初めてその事を知った。
それから僕は無償にその子の絵が描きたくなった。
一度しか言葉を交わしていないのに、何枚も何枚も、あの子の笑顔をまぶたの裏に思い浮かべ、絵を描いた。描けば描くほど新しい構図が思い浮かび、もっとあの子の色々な表情が見たいと思った。
もっとあの子の声を聞きたい。もっとあの子と言葉を交わしたい。もっとあの子の――――体温を感じてみたい。
それが僕の恋の始まりだったのだと思う。
盲目のプロセルピナ16
「アローン! ねぇ! 待って、アローンってば!」
の悲鳴にも近い声が背後からアローンを呼ぶ。アローンに手を引かれ、半ば走るようにやって来たは息をきらせていた。
振り返ると、戸惑ったような表情のがいる。
「ねえ、一体どうしちゃったの?」
どこか、怯えたようでもある。
ろくな説明もせず、こんな所までつれて来たのだからの戸惑いはもっともだろう。だが、今はちょっとでも早く街から離れたかった。そうしなければ――――怒った花屋の主人が、商会の人間を連れ、追ってくると思ったのだ。
強く握り締められたの手首には、くっきりと赤い痕が残っていた。
「ごめん……」
「ねえ、アローン……お願いだから、ちゃんと説明してよ。理由があるなら、ちゃんと自分の足で付いていくから」
なりに精一杯アローンを理解しようとしてくれているのだと思うと、胸が苦しくて仕方がなかった。
だが、になんと説明すればいい?
花売りの意味。の飲んでいる透明の薬。正体不明の咳。
アローンでさえ、信じたくない目を覆いたくなるような現実を、どう説明すればいい?
「アローン」
その時、ふいにがアローンの頭に手を添えて、包み込むように抱きしめた。
「?」
「大丈夫……私にはよく分からないけど、きっと良くなるよ。怖いことなんて何もない。あなたは何も失わない。だから……大丈夫」
まるで子供を慰めるように、髪をすいて額にキスを落とす。
途端にアローンは泣きたくなった。こんな時でさえ、自分はに慰められてしまうのかと思うと、自分の無力さが歯がゆくて、悔しくて仕方がなかった。
「僕は……君を失いたくないよ」
「大丈夫。どこにも行かないから。いつも一緒にいるよ」
「でも……ずっとそうじゃない。僕たちはいつか大人になるんだ」
「それでも、私はあなたの側にいるよ。大人になっても、おばあさんになっても、ずっとアローンの側にいたい」
「……死ぬ時も?」
「うん、死ぬ時も一緒。天国でも一緒。だから……悲しまないで?」
いつの間にか流れていた涙を、の細い指先がぬぐい上げた。優しいキスが涙を堰き止めるように落とされる。何度も、何度も、慈しみの雨で悲しみを洗い流そうとするように。
やがて、アローンは視線を上げ、ゆっくりと降りてくる唇に自分のそれを重ねた。は少し驚いたような顔をしたが、やがて受け入れるように静かに目を閉じた。
霧雨の中で、二人の間だけ熱が雨を蒸発させるように、暖かな空気に包まれている。
長い長い口付けの中で、ふいに――――アローンの舌先がの唇を割った。
「男はみーんなオオカミなのよ」
ケタケタと可笑しそうに杳馬が嗤う。アローンは視線だけで射殺してしまいそうな目で、じっと杳馬を睨み付けていた。
だが、攻撃を起こす気にはなれなかった。それよりもスポットライトに映し出された光景が、アローンの心を掴んで離さなかった。
杳馬の見せる幻想の中で、が驚いて顔を離した。
その瞬間、を下にして二人の身体が花園に倒れ込む。
花びらが散って、の豊かな髪が地面に広がった。
アローンに跨られるような格好でも、はそれが何であるかを理解していなかった。ただ未知のものへの不安と驚きが、その表情を占めていた。
そして、その顔に恐怖が混じったのは、アローンがの胸のふくらみに手を乗せた時だった。
「アローン……ねえ、どうしたの……?」
「………」
「ねえ……離して……怖いよ」
の怯えた瞳が、アローンを見上げる。だが、の身体の上に跨るように膝立ちになったアローンは、一切表情を変えず、ゆっくりとの上着の留め金に手を伸ばした。
「!?」
プツリ、プツリ、と静かにボタンが外されていく。その動きに躊躇いはなく、一定の速度で機械的に進む。
「やだ……ねえ、やだよ……」
の弱々しい拒絶など耳に入らないとでも言うように、アローンは強張った表情での服を解いた。
上着が外され。ブラウスの前が開かれ、下着のレースがゆっくりと下げられていく。
その性急でも緩慢でもない動きが、更にに恐怖を与える。
「アローン! ねえ、アロー、」
「」
アローンの静かな声が、を遮った。
「僕は、君が大好きだよ」
「っ!!」
には彼の意図が理解できなかった。こんな酷い事をして、それでも好きというのはどういう事なのか。
アローンの事は信じたい。世界で一番大好きな人だから、彼が望むのならこの身体を開いても良いと思った事もあった。
だが、それは決してこんな形ではない。
「君が好きなんだ。世界で一番。誰よりも、何よりも君が大切なんだ」
首筋に鼻先が降りてきたかと思うと、アローンはちゅっと唇を押し当て紅い花びらをの身体に散らしていく。初めての感覚にが身体を震わせる。
まるでどこをどうすればいいのか知り尽くしているように、アローンの唇が肌を伝っていく。指先は衣服の下に潜り込み、ゆっくりとだが正確にの殻を剥いで行く。
「やぁ……ぁ、あ……」
拒みたいのに、アローンの与える感覚はの身体の芯を痺らせて、一切の力を奪っていく。熱い吐息が冷えた霧雨の中に溶けていく。
「僕は……君が大好きなのに、君を守ることも、救う事もできない。でも……君を誰かに奪われてしまうのは嫌だ。これが、ひどい我侭な自分勝手な思いでも、絶対に……」
「アロー……ン」
霧雨に濡れたの頬に、ぽたりと透明な雫が落ちてきた。
まるでの頭上にだけ雨を降らせたように、絶えず雫を零し続ける。
「……。僕は……君になりたいよ。君と一つになって、消えてしまいたい……」
「アローン……」
「そうすれば、こんな風に思わなくて済む。こんな醜い、浅ましい欲を見せずに済む。僕は……」
その時、の唇がアローンの言葉を飲み込んだ。
優しい、触れるだけの口付けは、アローンの言葉を遮り、ゆっくりと離れていくと弱々しく微笑んだ。
「それで……あなたは苦しまなくて済む?」
「……」
「なら……いいよ。私をあなたにあげる……。私も……あなたが大好き。だから居なくなってしまわないで」
包み込むような柔らかな両腕に抱きしめられ、アローンは溶けるようにと身体を重ねた。
互いの熱を分かち合い、感覚が一つになって、どちらがどちらなのか分からなくなるほど重なって。
生理的に流れる涙とは別の涙が、互いの瞳に浮かんでいた。
きっと涙の味も同じなのかもしれない。もう、どちらが泣いているのか分からなくなっていた。
そして、涙と共に視界が白く弾けるその瞬間。
「ごめんね……僕は、それでも君を、失いたくない……」
アローンの指先がの細首に絡みついた。
end
純潔はすでに失われ。