Text

 僕はこの世界を愛している。
 千の色が光に透けて、幻想の色彩を生み出すこの世界を。
 大空の青も、豊穣の大地を覆う黄金色も、夕陽の赤も、緑に茂る森も、海も山も街も人も――――生命の躍動に満ちたこの世界を愛している。
 移ろう世界は一瞬たりとも同じ色を見せることはないけれど、その美しい世界を少しでもキャンバスの上に残すことが出来たら。僕はそう願って筆を取った。
 大好きな風景、大切な人達、みんなの絵を書くことが僕の喜びだった。
 綺麗な宝石を宝箱にしまうように、それは僕のお気に入りだった。
 だけど――――いつからだろう。
 僕の世界から色が消えた。



盲目のプロセルピナ15





 小宇宙コスモが砕けるように消えたのを感じ取り、アローンは筆を止めた。
 小さく溜息をつき、書きかけのキャンバスに目をやる。
 花に埋もれるようにして眠る乙女の絵、題するなら『乙女の死』というところだろうか。
「終わったのかい?」
 誰にともなく尋ねると、暗闇の中からコツリと黒いつま先が伸びた。シルクハットをかぶったチャシャ猫のような顔で笑う男が、ゆっくりと姿を現す。
「ええ、しっかりね。ま、真実を突きつけたら驚いて逃げちゃいましたけど」
 この男のことだから、きっと一番効きそうな言葉を選んでそれを伝えたのだろう。の心を揺るがし、衝撃を与え、内側からバラバラにするような残酷な言葉を。
「まあ、だいたい見当はついてますヨ。きっと片割れの所に逃げ込んだんだろうね」
「片割れ、か」
 杳馬の話では、ペルセフォネは魂の一部を人間に転生させた。つまりは女神としては半身しか持たない不完全な形であり、もう一方の魂はエリシオンに残していったのだった。
 だが、双子神が目覚めた時、エリシオンは空だった。片方が地上へ向かいという人間になった後、もう片方もどこかへと姿をくらませてしまったのである。
 そして杳馬の言う見当とは、おそらく聖域の事に違いなかった。あの双子神が探して見つからなかったのだ。隠すとしたらもうそこしかない。
「お前の手引きではないのか?」
 アローンの言葉に、杳馬はおどけたような顔で手を振った。
 この道化師のような男ならば、そのくらいの事はやって見せるかもしれない。なにしろこの聖戦は、すべてこの男によって仕組まれたといっても過言ではないのだ。
 ハーデスの器となる少年・アローンが幼い頃奪われたこと。その妹にアテナが生まれたこと。そして、宿敵となるペガサスと幼少期を共に過ごす事になったこと。
 その上、人間となったペルセフォネまで、杳馬は丁寧に用意したのだ。本来であれば、決して聖戦に巻き込まれる事のなかった冥王の妻までもを。
 初めてその事実を知った時、怒りで発作的に滅してやろうと思った。だが、怒りを露わにした彼に、杳馬はにやりと笑ってこう言ったのだ。
『いいのかなぁ? ちゃんの魂が永久に失われてしまっても』
 冥界のものはすべて冥王の財産である。それは、の魂も例外ではないはずだった。
 だが、不完全な状態であるは肉体を失った今、地上にも、冥界にも留まれないのだと言う。泡沫のように消え、存在そのものが消えてしまう。
 それを防ぐには、元ある状態に戻すしかない。分かれてしまった女神の魂を、再び一つに戻すしかないのだと、そう杳馬は告げた。
「さすがの俺も臨戦態勢の聖域にゃ入れない。よしんば入れたとしても、当の女神様がひとつに戻る事を嫌がるかもしれない。だったら無理やり戻しちゃいましょう。ばらばらじゃ居られないくらい、揺さぶって、追い詰めて」
 なにせちゃんは、今はただの人間の女の子だからね――――
 にぃっと唇を歪めて、杳馬は両目を三日月形に細めた。
 アローンは報告をそこまで聞くと、もう用はないとばかりに杳馬に背を向けた。
 後は待てばいいだけだ。が女神の魂と融合して、完全にペルセフォネとして復活するのを。
 キャンバスの中の乙女は穏やかな表情で眠っている。こんな安らぎを早く彼女に届けたい。エリシオンの花園で穏やかな眠りにつかせてやりたい。
「ははあ、流石見事なものだねえ」
 去ったと思いきや、杳馬はひょいっとアローンの肩越しにキャンバスを覗き込んだ。
 『乙女の死』に描かれたは、エリシオンで眠る姿をイメージしている。だが、杳馬はにぃっと顔を歪めると、
「これは天国エリシオンなんかじゃないでしょう」
 ふいにあざ笑うような声がアローンの胸を穿った。
「……何を言っている」
 平静を装ったつもりだったが、それすらも見透かすように杳馬が目を細める。
「いやいや、だって。エリシオンに雨なんか降らないでしょう。この光景、知っているよ。あれは確か……北の山奥の」
「!?」
「雨が降っていたよねぇ?」
 くつくつ、と杳馬が喉の奥で笑う。
「下がれ、メフィストフェレス!」
 アローンはその笑みをかき消すように怒号を上げると、勢いよく片手を横薙ぎに振った。黒い衝撃波が杳馬に向かって放たれる。だが、杳馬はひょいっとそれをかわすと、アローンの背後に回りこみ、耳元で囁いた。
 悪魔のように。
「感謝しなよ、ちゃんには言わないでやったんだぜ? なぁ――――締めながらヤると、すげぇイイよな?」






end


次回、微エロ。