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 霧雨のような細い雨が上気した頬を濡らしていく。
 しっとりと、瑞々しく、まるで果実のように。
 雨音はなく、無音の世界に響くのは荒々しい呼吸だけ。
 肩で呼吸をしながら、少年はひどい虚無感に襲われた。疲労によるものではない。これは――――自分の見下ろす現実から来るものだと理解する。
 虚ろな瞳はまっすぐに、花の上に横たわり少年を見上げている。だが、その瞳は彼を映していない。どこまでも広がる大空のようだった瞳は、今はガラス球のように空しい色をしている。
 大好きだったのに――――
 雨に濡れた指先で顔を撫でた。
 この瞳も、亜麻色の髪も、大好きだったのに――――
 今ではその色は永遠に失われた。虚しい、偽者の色になってしまった。
 心にぽっかりと空洞が生まれる。今まで少年の心を満たし、支えていたものがするりと抜け落ちる。
 大好きだった。大切だった。愛していた。
 でも――――否、だから。
「僕は君を殺さずにはいられなかった」
 誰よりも早く。この世で一番最初に。
 死した魂はどこへ行くのだろう。冥界に向かうのだろうか。きっと彼女はエリシオンに迎え入れられるに違いない。これほど清い魂を持っているのだから。
 そうしたら、今度こそ――――誰にも渡さなくて済む。貧困も病も、差別も迫害もなく、穏やかな心地でいつもあの色を眺めていられる。
 跨るようにして両膝をついていた少年は、ゆっくりと上半身を曲げると呼吸のない唇に己のそれを重ねた。柔らかな唇を割って、舌先がするりと潜り込む。
 愛する少女とのキスは、ザクロの味がした。
「これで君は僕だけの物だよ」
 少年は細い指先で少女の唇に触れ、そしてふっと薄い笑みを浮かべたのだった。




盲目のプロセルピナ13





「え……?」
 衝撃よりも驚きよりも、まずを襲ったのは戸惑いでしかなかった。
「実は貴方はね、もうすでに死んでるんですよ」
 戸惑いの原因を確かなものにするように、にこにこと微笑みながら杳馬が繰り返す。だがには未だ悪い冗談のようにしか聞こえない。
 死んでいるというのなら、今がここでこうしている事の説明がつかない。幽霊のように半透明になるのでもなく、呼吸もすれば、体温だってある。
「嘘……でも……え?」
「ま、冥界の女王に生きてるとか死んでるとか言うのは、あまり意味がない。だから、誰も疑問視しなかった。貴方が霊体のままふらふら地上を彷徨っていたってね」
 実際はこうです、と杳馬は得意顔になって語り出す。
「双子神が目覚めた時、エリシオンは空だったのさ。本来ならそこにいるはずの貴方がいなけりゃ、さすがの死と眠りも大慌てだ! 探しに探し、ようやく依代の少女を見つけた時、二人は驚いただろう。なんせ、冥王の器の少年と寄り添うように人間に生まれていたんだから」
 あまりにも突拍子のない話に、は眩暈を覚えた――――
 死んでいるのなら、こに眩暈も錯覚なのだろうか。そんな事あるはずないと、は自分の恐れをはねのける。
「冥王の意思か、女神の願いか、はたまた何者かの陰謀か。いずれにしろ、覚醒前の貴方にはさすがの双子神も手の出しようがない。そこで、ハーデス様がお目覚めになるのを待ったわけだ」
 好機はすぐに訪れた。
 依代の少年には、すでに翳りが見え始めていたからだ。
 彼はの見ぬ振りをした世界の矛盾に気づき始めていた。見たくないと思いながらも、彼はその優しさ故に拒むことが出来なかった。
 が目を瞑って明るく振舞おうとすればするほど、アローンはその影を見てしまったのだ。
 の捨てた痛みを。嘆きを。苦しみを――――アローンまでも捨てる事は出来なかったのだ。
 ふふ、ふふふ、はは、あは――――
 杳馬の狂ったような嘲りがの胸を突き刺す。
「綺麗で、清らかで、純粋なコレーちゃん。貴方の目にこの世界はどう映った? 貴方の目にこの世の穢れはどう見えた?」
「やめ……」
「知りたくなかったよねェ? わかりたくなかったよねェ? こんな穢れた世界があるなんて! 貴方の世界はいつも色とりどりのキレーなお花で埋め尽くされてるのさ! こんな汚らわしいものがあるなんてこと、想像さえした事なかったんだろう? でも、悲しいかな、それが人間なのですヨ」
 は両耳を塞ぎ、杳馬を拒むようにかぶりを振った。
 違う、違う、違う。
 繰り返せば繰り返すほど、その言葉は虚しく紡がれる。
「なぁんにも、違ったりしませんよ。これが真実、嘘偽りない確かな出来事 」
 杳馬はの両手を手に取ると、ゆっくりと膝の上にそれを降ろさせる。まりで子供に言い聞かせるような、優しい声音で、
「いい加減、逃げるのはやめよーよ。ペルセフォネちゃん」
「!?」
「どんなに名前を変えても、人間の振りをしても、誤魔化せきれないものってあるのよ。知らん顔したけりゃすればいい。醜く争い合う聖戦なんざ、あんたのきれーな世界にはないんだから」
 だけどね、と小さく呟いて、杳馬はすっと目を細めた。
 禽獣に似た鋭い瞳にいすくめられ、は瞳の奥の奥を貫かれる。
「知らん顔は知ってるって事だから。君の罪はもう、知らないで済まされるものじゃない」
 言わないで――――
 の唇は無意識のうちに、懇願の言葉を紡いでいた。
 だが、杳馬は無慈悲にそれを無視して、
「君のせいで、アローン少年は世界を呪った。君のせいで、彼は人間をやめてしまった。おめでとう――――君のせいでこの聖戦は起こったんだ」






end


実はヒロインすでに死んでいて、
犯人は恋人というオチ。