Text

!CAUTION!
ここからの物語は、更にシリアス、暗い展開となります。
問題ない方のみお進みください。







































 爆ぜるような音のすぐ後に、火がついたように右の頬が痛んだ。頬を力一杯叩かれたのだと気づいたのはもっと後で、目の前の女将が顔を歪めて罵声を放った時だった。
! 花も売らずにどこをほっつき歩いてたんだい! 姉さんたちはバスケットを空にしてきたのに、あんたのは全然売れてないじゃないか!」
 このグズ――――と、女将の声と共にもう片方の頬が熱を持った。痛みよりも驚きでは手にしたバスケットを取り落とした。マーガレットの花が床じゅうに散らばり、それと一緒に折り畳んだ画用紙が床を滑った。
「!!」
 はすぐに拾おうと手を伸ばしたが、その指先を踏みつけられ思わずてを引っ込める。その隙に女将はそれを拾い上げると、はんと小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
 画用紙には花に囲まれて微笑むが描かれていた。
「あんたまた孤児院のガキたちと遊んでたんだね。あのアローンとか言うガキと」
 は口を噤んだ。もしここでアローンの名を出せば、アローンが怒られてしまう。女将は孤児院に文句を言って、アローンがと遊ばないようにしてしまうかもしない。
「何とかお言い!」
 苛立った女将が再び手を振り上げた。は次くる衝撃に身を竦ませたが、女将の上げた手は宙で無骨な手に阻まれ下りて来なかった。
「おい、顔はよせっていつも言ってるだろう。明日は商会の監査が来る日なんだ。花売りに傷をつけたなんてしれちゃ、俺が怒られちまう」
「でも、あんた」
 女将の苦言を無視して、主人はの前に屈むと、の頭をぽんと叩いた。酒の匂いのする顔を寄せて、
「それにそのガキ、意外とコイツに気があるのかもしてねェ。、次そいつに会ったらこう言ってやるんだぜ? あたしを書きたきゃ金を持ってきな。銅貨一枚で、一枚ずつ脱いでやるってな!」
 はは、はははは、ははは、は――――
 狂ったような夫婦の笑い声。何が可笑しいのかまったく分からず、ただ恐怖に追い立てられるようにかはそこから逃げ出した。
 階段を登ると、ベッドの上でシーツにくるまった少女が、苛立たしげな視線でを刺す。
「あんたまた女将さんを怒らせたの? バカねぇ、花なんて売れなきゃ皆みたいに捨ててくりゃいいのに」
「そうそう。どーせ皆、花なんて欲しくも何ともないのよ。欲しいのは他のものなんだから」
 別の少女がくすくすと、嘲るような笑みを零す。
「やめときなさいよ、子どもにそんな冗談言うの」
 別の気だるげな声が、奥のベッドから響く。でも姉さん、と嘲りの少女が嗤った。
「この子ってば、いつまで経ってもおぼこいんだもの。本当にコウノトリが子供を連れて来るって信じてるんじゃないの?」
 かわいい、かわいい、と嘲りの少女がの頭を撫でた。と、思いきや突如、思い切り髪を引っ張られる。が驚いて腕を振りほどくと、少女は詫びいる事もなくくすくすと笑みを零した。
「可愛くって可愛くって……ついつい、めちゃくちゃにしてやりたくなるのよね」
 別の少女が気だるげな声を上げる。
「そうね。その透明な目に見せてやりたくなるわ。世界はこんなにも汚く、途方もない悲しみに満ちている」
 別の少女が苛立たしげに相槌を打つ。
「そうよ。見開いたその目に突き付けてやりたくなる。人々はこんなに醜く、弱いものから強いものに食いつぶされて行く不条理な世界」
 うふふ、うふふ――――
 神話に出てくるエリニュスのように、苛立ちと嫉み、憤りを抱え、少女たちは不気味な笑い声を上げた。それはを嘲るようでもあり、責めているようでもあった。
 お前はいつも何も知らない。痛みも苦しみも知らん顔。綺麗なものと、美しいもの、それ以外は世界に存在しないとでも言うように。
 何も知らない、無邪気で無知な――――愚かな乙女。



盲目のプロセルピナ11





「やめて!」
 の悲鳴と共に、スポットライトの光は四散した。
 杳馬の見せた幻影も共に消え失せ、静寂な空気が厳かな室内に戻る。
「違う……私、こんなこと……」
 は唇を噛み締めてかぶりを振った。
「知らなかった? 信じていなかった? どちらにしろ、貴方は見ないふりをしていただけ」
 パチン、と杳馬が指を弾くと、頭上から無数の切り花が舞い降りた。
「バスケット一杯の花を売って、一体それがどのくらいになるのか」
 宙を舞う一輪を手に取り、杳馬は恭しくの前にそれを差し出す。
「こんな二束三文の花じゃあ、パン一個だって買えない」
 杳馬はが受け取らないことに目を細め、そっとの髪にそれを差した。皮肉にもその花は、アローンと永遠を誓い合ったアイリスの花だった。
「売り子の少女たちは、皆なにがしかの借金を抱え働いていた。貴方のように、両親の残した莫大な借金を返すために働いていた娘ばかりだっただろう」
 まるで花の冠でも作るように、 杳馬は絶えずの髪を飾り続ける。
「一体、いつになったら借金は返せる? バスケット一杯の花を売っても、ろくな金にならないのに?」
「やめ……」
 花の香気でむせ返りそうになる。だが、杳馬はやめなかった。
「貴方も薄々気づいてたんじゃないのかな? 花売り仲間の姉さんが、突然消えて、一二時間後にふらっと帰ってくる。行く時は一杯だったバスケットを空にして。帰ってきた姉さんの、恨むような、悲しげな表情の意味を知っていたんじゃないの?」
「ちが……」
「じゃあ、こいつはどうだろう? 花売りの姉さんの一人が行方不明になったときの事。姉さんを探しに行った旦那さんが目に大きな怪我をして帰ってきた事があったっけ? それからずっと旦那さんは機嫌が悪くて、姉さんの行方を聞くどころじゃなかった。それから何日後のことだろう、崖下で若い女の死体が見つかった。雨で地盤が緩んで、足を滑らしたんだって大人達は言っていた。でも、それは……本当かねェ?」
「それ、は……」
 疑わなかったわけじゃない。でも、誰に聞いてもそれ自体が不吉な事のように口を噤んでしまうから、だからもやがて口を噤んだのだ。
「墓標のない墓の意味。時折やって来る商会の男たち。ああ、それと忘れちゃいけない――――貴方の飲んでいた透明な薬。あれは本当に……薬だったのかな?」
「!」
 杳馬がパチンと指を鳴らすと、再び眩い光の筋が薄暗い部屋を照らし出した。
 光の中には、今と変わらないの姿がある。
 赤いカーディガンを肩にかけ、アローンと並んで青空を眺めているその光景は、ほんの数ヶ月前のものだ。
「さあ、第二幕の始まりだ」
 杳馬の声と共に、は否応なく光の中へと見入った。





 の空咳を聞く度に、アローンの表情は曇った。前はこんな咳などしていなかった。理由のよく分からない咳をし出したのは、ここ数ヶ月の事だ。
 初めは風邪かな? と笑っていただったが、数ヶ月が経ちアローンはの笑顔を信じきれなくなっていた。
 何事もないと信じたい。ただの風邪なのだと思いたい。
 だが、それを楽観視するには、の身体は弱り切っていた。
 元が白いだけに病弱な肌は、ぞくりとするほど透明で、存在そのものが希薄になってしまったような錯覚を覚える。触れ合って、そのわずかな体温を感じる事で、ようやくアローンは安堵を取り戻した。
「やっぱりちゃんとお医者様にかかった方がいいよ」
 の冷たい指先を包みながら、アローンは呟いた。すでに何度か同じことを言ったが、その度にははぐらかせてちゃんと聞こうとはしなかった。
 理由はアローンにもわかっている。強欲な花屋の主人が、医者に診せる金をしぶっているのだと理解できた。
「大丈夫だよ。お医者様には診てもらっていないけれど、ちゃんとお薬は処方してもらっているから」
 そう言って、透明な小瓶をよく見えるように掲げて見せる。アローンは未だ曇った顔をしていたが、
「ね、それより、続きを描いて? 私の絵を書いてくれるんでしょう?」
 に促され、アローンは不承不承筆を手にとった。
 花に囲まれたの姿を。以前、描いた画用紙の走り書きなどではなく、キャンバスの上に色取り取りの色彩で描く。
 きっとこの絵は最高傑作になる。想いを色彩に混ぜ入れて、どの絵よりも美しく書き上げようと念じた。
 絵が出来上がったら、額縁にいれてに贈ろう。リボンをかけて、大切な想いと一緒に。





「泣かせるねェ。貧しくともお互いを想うだけで満たされるなんて、なんて可愛い恋人たちなんだろう。キスもせず、ハグもせず、ただ手を握るだけでいいなんてまるで天使か聖人だ」
 いいねぇ、素敵だねぇ、と杳馬は笑いながら拍手を送る。だが、その笑みの裏には、ひどく嗜虐めいた想いが込められていた。
「誰もが望むハッピーエンド。もしも、この瞬間を切り取ることができたのなら、それはとても美しい一面となっただろう。でも――――運命はいつでも残酷なのです」
 パチンと指を鳴らすと、スポットライトがふっと消え、別の場所に光がさした。
 曇天の空。煉瓦造りの街道をアローンは独りとぼとほと歩いている。
 の知る光景ではなかった。
「これは……?」
 の困惑した表情に、杳馬はにかりと笑って見せる。
 そして、
「さあ、悲劇の始まりだ」






end


世界が壊れてしまう少し前のお話。