盲目のプロセルピナ10
今も、切り裂いた感触が残っている。
肉を貫通する感覚。伝った血の暖かさ。
まるで自在に動く手足のように、あの瞬間、部屋中に飾られた植物はの身体の一部だった。一部となり、目の前の男を排除しようとした。
的確に心臓を突き刺し、縛り上げ、殺したのだ。
「私が……殺した……」
昨晩、突き上げられた男の身体は、ハーデスにより灰にされて霧散した。男の残した断末魔も、苦悶の表情も、血も、肉も、すべて嘘のように消え失せた。
だが、の指先に残る感触だけは消えない。
現実感のない恐怖だけが、の心にひとしずくの闇を落とす。たった一滴にも関わらず、それは湖水のような透明な水を濁らせ、淀んで行く。
ずっと自分を見知らぬ名で呼ぶ人たちの事を、たちの悪い冗談のように信じきれずにいた。自分は天涯孤独の貧しい花売りだ。それ以上でも、それ以下でもない。
なのに、この城の者たちは皆、べつの誰かをに重ね合わせる。が知らないと言い張っても、まるでこちらが夢を見ているように取り合ってくれない。
らちの明かないこの不合理を、はずっと何かの誤解なのだと思おうとしていた。だが、昨日のあの一件で、は自分の事が分からなくなってしまった。
あの感覚を――――恐ろしく思いつつも、どこか懐かしいと感じてしまった。未知の力を奮ったのではなく、秘められていた何かを解放したような感覚。
「私は……だれ?」
鏡の中の自分に問いかける。
応えがあるはずがない。
頼りなさげな空色の瞳が自分を見返している。
だが、――――
「純潔にして、誰よりも清らかな春の女神! それが貴方です、女王様」
突如、鏡に映る自分の背後ににゅうっとシルクハットを被った男の姿が現れた。驚いて振り返ったの眼前に、男は人懐っこい笑みを寄せる。
「大神ゼウスの子にして、大地の女神デメテルの愛娘。大地母神ガイアの血を引く正統なる地上の女神。サラブレット中のサラブレット!」
「あな、たは……?」
「おっと、挨拶が遅れたね。俺は天魁星メフィストフェレスの杳馬。失礼ですが、この顔に見覚えは?」
はじっと杳馬の顔を見つめ、首を横に振った。
「あらら、忘れちゃうなんてそりゃつれない」
がっくりと肩を落とすが、そうする素振りもどこか大袈裟に冗談めいて見える。
杳馬はにこにこと笑みを浮かべながら指先を伸ばすと、そっとの頬に触れた。
「いいね、いいね、可愛い顔に育ったもんだ。神代の貴方と瓜二つ、人間にしとくにゃ勿体無い! ハーデス様もきっと大喜びですよ。なんせ冥王すらも、この顔にゃめっぽう弱いと来てる!」
は杳馬の手を振りほどくと、きっと睨みつけるように見据えた。その真っ直ぐな視線を、不敵な笑みで受け止める。
「いいねェ。そーゆー気の強い顔だーいスキっ! こーゆー顔見ると、ついついイジメたくなっちゃうのよ」
「あなた……!」
かっと怒りに頬を染めたの顔を見て、杳馬はキヒヒと下品な笑みを浮かべた。
「まあまあ、怒らないで女神様。俺は貴方の味方なんだから。困った顔の貴方が放っておけなくて、こうして人目を偲んで現れたのですよ」
その言葉を受けてもは警戒を解こうとはしなかった。この男の事はよく知らないが、不誠実な男であることは確かなようだ。
「……目的はなに?」
の鋭い視線を受けて、杳馬はにやりと口元を緩める。
「真実を掴みかねている貴方に、ささやかながら助言を差し上げようかと。知りたいでしょ、自分のこと?」
「……結構です」
のつれない返答に、杳馬は心底嬉しそうに笑みを浮かべた。
だが、だめですよ、と杳馬を首を横に振って告げる。
「貴方には知ってもらわなくちゃ。自分のこと、アローン少年のこと……そして、貴方の犯した罪のことを」
「!?」
怯えるの前で杳馬は両手を広げると、まるでスポットライトが当たったように眩しい光が部屋の片隅を照らした。
その光の中に、粗末な服を纏ったの姿が現れる。手には一杯の花がつまったバスケットを掲げている。少し幼い。今より二年くらい前の姿だ。
「さあさあ、始めましょう。貧しい花売りと絵描きの少年の、美しくも悲しいとびきりのワルツを!」
拍手と共に杳馬が高らかに宣言する。
「さあ、開幕だ」
end
謎解き役として、杳馬登場。
こういう人を食ったようなキャラって好きです(笑)。
なお、今更ですが、原作のネタバレ&捏造が、
ここからさらに酷くなりますのでご注意をば。