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 その人はいつも花吹雪と共に現れる。
 どんなに深い暗闇の中にいようとも、どんなに寒い水の中に沈もうとも。
 その人は柔らかな花の香と共に現れて、そっとパンドラの頬にキスをしてくれる。
 まるで亡くした母のように、慈愛に満ちた微笑を浮かべ。
「大丈夫。泣かないで、パンドラ」
 少女の頃。クリスマスを待ち遠しくしていた頃。すべてを失ったあの夜。冥王軍を従え、ハーデスの依代の少年を見つけた頃。そして今も――――パンドラがどんな姿に変わろうとも、その人は同じ姿で、同じ柔らかな花の香を纏い、暖かな手を差し伸べてくれる。
「大丈夫。泣かないで、パンドラ」
 その言葉を聞くだけで、どんな悲しみも、苦しみも、痛みも、乗り越えてくる事が出来た。すべてが赦された。
 だが、その夜パンドラの元に現れたその人は笑ってはくれなかった。
「ごめんなさい……」
 大粒の涙が空をはめ込んだような双眸から零れ落ちる。
 パンドラは慌てて少女の前に膝を折ると、とんでもございません、と声を上げた。
「すべてこのパンドラの不徳の為すところ。ペルセフォネ様に辛い思いをさせてしまい、どのようにお詫びすれば良いのか……」
 だが、少女は首を横に振る。
 パンドラの前に両膝をつき、パンドラの頭を抱え込むように抱きしめる。
 そうする姿は母が子を慈しむというより、子が母を求めるそれに似ていた。いつの間に自分は、この方の背丈を追い越したのだろう。ぼんやりと思う。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 ペルセフォネは大粒の涙を零し、贖罪の言葉を繰り返す。
「私は罪を犯しました」
「ペルセフォネ様……? 何を……何を仰っておられるのですか!?」
「私は……決して赦されない罪を犯してしまいました」
 大粒の涙が頬を伝わり細いあご先から零れ落ちる。
 その涙をぬぐい上げようとパンドラは腕を上げたが、指先は届かず、ペルセフォネの身体はゆっくりと地中に沈んでいく。
 地中から伸びた無数の鎖がペルセフォネをがんじがらめに縛り上げ、地中の奥底へ飲み込もうとしているのだ。
「ペルセフォネ様!」
 パンドラはあらん限りの声を上げて手を伸ばした。
 だが、その手は届かず、ペルセフォネの悲壮に満ちた顔がじっとパンドラを見つめている。ゆっくりと沈みながら、少女は贖罪の言葉を繰り返す。
 そして、
「ごめんなさい……ごめんなさい、お姉さま……」




盲目のプロセルピナ09





 くるくる、くるくる、と。
 盤上を回る黒のクイーンが遠心力を失い、カツンと倒れた。
「浮かぬ顔だな。予定とは異なるシナリオだが、大方我々の想定どおり。良かったのではないか?」
 向かいに座るヒュプノスを、タナトスは視線だけで見上げた。
 よもやこの男はここまで計算に入れていたのではないか、と疑念がこみ上げる。双子と言えど、似ているのは顔形くらいで、性格も性質もまったく異なるのだ。
「良いものか。女神の力が暴走するなど想定外だ」
 ハーデスに傷を負わせ、そしてペルセフォネ自身も危険に晒した。それが気に食わない。
「だがこれで女神の証は立てられたも同意。ペルセフォネ様がお力も取り戻しつつある、喜ばしい兆しだ」
 タナトスは忌々しげにヒュプノスを睥睨した。
 悔しいがそれは双子の弟の言うとおりである。元より二人に、人間ごときに女神を穢させるつもりなど毛頭ない。いつでも介入できる隙間を空けて、見張っていたのだ。
 だが、枯れた花は未だ色彩を取り戻さない。セピア色の死骸のままだ。
「しかし――――なぜ、あの方は人間などにお生まれになったのか」
 ふとヒュプノスが常々の疑問を口にした。
 本来であれば、ペルセフォネはハーデスが目覚めるまで彼の肉体の眠るエリシオンから離れる事はない。ハーデスに寄り添うように肉体は眠らせ、魂のみとなり静寂の眠りを守るエリシオンの番人となるのだ。
 だが、今聖戦において、双子神の目覚めた時、エリシオンに女神の魂はなかった。
 あろうことか人間に転生し、冥王の器となる少年とすでに出会っていたのである。それはつまり、少年と共に育った天馬星座ペガサスとアテナとも、すでに顔なじみであるという事だった。
「さあな。あの方は神話の時代から、予想を外れた事をする。先回りしようなどという無駄な考えは、俺はとうに捨てた」
 ため息をついたタナトスが、いつもの調子に戻っているのでヒュプノスは密かに笑みを零した。
 しかし、ヒュプノスには無駄な考えとそれを切り捨ててしまうことに、ぼんやりとした不安があった。意味があることには違いないが、なぜあの場所へ生まれたのか。
 アテナのようにアローンを追ってあの場所へ生まれた――――
 だが、それでも疑問は残る。一体どうやってハーデスの器となるアローンを探し出したのか。双子神でさえ見つけるのに十数年の時間を要したアローンを。
 アテナと違い、聖戦から程遠い場所にいたペルセフォネが、自力でアローンを見つけ出したとは思えなかった。
 誰か――――協力者がいた?
 ペルセフォネを唆し、エリシオンから連れ出して、人間に転生させた者が。
 アテナか。聖闘士セイントか。それとも、冥闘士スペクターか。
 いずれにせよ、女神を人間に貶めた罰は受けてもらわねばなるまい。
 チェス盤の上で踊るクイーンを、ヒュプノスは金色の瞳でじっと見つめた。






end


聖戦の影に潜む謎へ。