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盲目のプロセルピナ08





 の寝室の方から響いた物音に、パンドラははっと息を飲み込んだ。
 空に煌く月が南天に昇ったのに気づき、ついに始まったのだと覚悟を決める。
 物が激しく壊れる音に続き、少女の悲鳴が響く。
 パンドラは両手を胸の前で組み合わせると、激しく高鳴る鼓動を収めるようにぎゅっと握り締めた。
 心配ない――――万一の事など有り得ぬ。
 の影には冥闘士の一人を潜ませている。万一、双子神の計略どおりに事が進まなければ、すぐさまその者が現れて賊を殺す手はずになっている。
 だが、寝室から響く音を耳にするたびに胸が引き裂かれそうに痛かった。
 双子神は今晩、覚醒のための儀式の一つをなし得ようとしている。
 純潔の喪失――――つまり、神話でそうであったように、“コレー”(純潔)の証を奪うという意味だ。
 そのために賊に仕立て上げた冥闘士を、の寝室に潜り込ませた。元・聖闘士であった男は記憶も何もかも失い、ただがペルセフォネを騙る“偽者”であると認識する。そして、その身体の中に途方もない渇望を抱いている。汚らわしい獣のような欲を。
 男がを目にしたら、どうなるかなど想像するだけでも身震いがした。
 当然、あの双子神とて、女神を人間ごときに穢させるつもりは毛頭ない。狙いが外れれば、すぐに男の始末はつける。
 だが――――いくら女神の覚醒のためとはいえ、これは赦されることなのか?
 寝室から響く悲鳴がパンドラを苛んだ。
 いくら目覚めていないとはいえ、あの少女は冥界の女王の器なのである。
 もしハーデスがこの事を知ったら、彼はなんと言うだろう。あの冷え切った氷のような瞳で、パンドラを蔑むだろうか。
 もしかしたら、もう二度と――――お側に置いていただけないかもしれない……
「……っ!!」
 パンドラは唇を強くかみ締めると、三叉の鋒を手にの寝室へと走った。
 双子神からの叱責は承知の上。だが、これ以上、の悲鳴を聞き続ける事など出来ない。
様! いま、お助けしますっ!!」
 扉を勢いよく開け放ち、パンドラが寝室に飛び込むとそこには――――
 ぴちゃり。
 真っ赤な鮮血がパンドラの視界に飛び込んできた。
 頭上高く突き上げられた植物に胸を穿たれた男。そのつま先から鮮血が零れ落ちているのだ。
 だが、問題はそんな事ではない。
 ベッドの上でうずくまる少女は暴行を受けた鬱血の痕を白い肌に残し、その前に佇む黒髪の少年は頬の先から赤い雫を零していたのだ。
「ハーデス……さま」
 状況が理解できなかった。
 ハーデスの登場は想像の範囲内、むしろヒュプノスの狙い通りと言える。今回の一件はハーデスに覚醒しないへの危機感を煽るためのものであったからだ。
 だが、そのハーデスがなぜ傷ついてここにいる? 傀儡人形のような聖闘士など、指一本で葬ってしまえただろうに。なぜ血を流している?
「ハーデス様……これは、一体……」
 パンドラの問いに答えはなかった。
 ハーデスはパンドラに目もくれずその脇を通り過ぎると、突き上げられた男に手を掲げた。身体を貫通する植物や、男の流した血液ごと、さらさらと灰に戻って霧散していく。
 そして、跡形もなくそれが消えると、きびすを返し、ベッドの上でうずくまる少女に向き直った。
……泣かないで」
 驚くほど優しい声音で少女を呼ぶ。
 だが、は顔を上げず、顔を覆ったままかぶりを振った。
「大丈夫……何もないよ。何も起こってない」
「いや……いや……」
「これは全部、悪い夢なんだ。明日になれば全部忘れる。君は……何もしていない」
 言い聞かせるように紡がれる言葉に、パンドラは困惑するばかりである。
 “何もしていない”――――どういう意味だ? 何もされていない、ではなく、していない、とは。
 だが、次の瞬間、パンドラはその答えを自ずと理解した。
「いやっ、近付かないで!!」
 が声を上げた瞬間、部屋中に飾られていた花々が茨のような茎を伸ばし、ハーデスに襲い掛かったのだ。
「ッ……」
 ぴちゃり。
 紅い鮮血が、パンドラの目の前で零れ落ちる。
 ハーデスは茨をよける事も防ぐことも、相殺させる事すらせず、無防備なままその身に受けた。棘に手が傷つく事も厭わず、の花飾りからまっすぐに伸びたそれを握り締める。
 そして、
「大丈夫。痛くないから、ね?」
 アローンの、人間のような顔で微笑みを浮かべると、の強張った頬に手を添えたのだった。触れられた箇所から溶けていくように、の凍りついた顔が感情を取り戻していく。
「ごめっ……なさい……ごめん……なさい……」
 は大粒の涙をぼろぼろと零すと、ハーデスの胸にしがみついた。
 ハーデスはの背を撫でながら、その身体を優しく抱きしめる。衣服を切り裂かれ、鬱血の痕を残した身体を労わるように包み込む。
 パンドラは眩暈を覚えた。
 なんと愚かな事をしてしまったのだろう。この二人の間に、つまらぬ姦計で割って入ろうなどと。
 ハーデスは最後まで振り返らなかった。
 ただ一言。冷たい声音がナイフのようにパンドラの胸を刺す。
「下がれ。お前も、影の中の者も。二度と余の妻に近付く事は赦さぬ」
 それだけが絶対の命令として、パンドラに下されたのだった。






end


覚醒の兆し。
次回から真相編です。