コレーと言う名の美しい娘がいた。コレーは大神ゼウスと大地の女神デメテルの娘で、母と共に豊穣を司る女神だった。
美しいコレーに恋をし多くの神々が彼女に贈り物を送ったが、デメテルは愛娘を誰にもやるつもりはなく、その贈り物をコレーに黙ってすべて送り返してしまった。
何も知らないコレー。恋心を知らないまま、母とニンフたちと暮らす事が幸せなのだと思っていた。
そんなある日、コレーは漆黒の衣を纏った神に出会った。
神は冥界の王ハーデスで、コレーにとって伯父にあたる男だった。誰もがハーデスを恐れ、近づこうとしなかったが、コレーだけはハーデスの元に歩み寄り微笑を向けた。
「伯父さまの住んでいる所はお花が咲かないのでしょう?」
そう言って差し出された花束にハーデスは冷たい視線を向ける。
「余は花など好まぬ」
「なぜ?」
「花はすぐに枯れる。弱く、儚い存在だ」
「いいえ、花は弱くも儚くもない。だって何度枯れてしまっても、力強くまた咲き誇るもの」
きっと冥界に持ち帰れば、たちまち花は枯れてしまうだろう。コレーの言葉などたかが子供の戯言に過ぎない。
だが、ハーデスは自分を恐れず声をかけ、あまつさえハーデスの言葉を正面から否定したこの少女に興味を抱いた。
「……お前の名は?」
少女はにっこりと微笑むと、自分の名を告げて、鮮やかな花束をハーデスに手渡した。
盲目のプロセルピナ04
「それが僕たちのすべての始まりなんだよ」
腕の中で眠り続ける少女の頬を、アローンの指先がすっと撫でた。瑞々しい果実のような肌は、神話の時代から変わることなく美しい。デメテルの加護を受けた大地の輝きに似た亜麻色の髪も、ゼウスから授かった大空の色の瞳も、すべて神代から引き継がれたものだ。
「誰とも添い遂げることなく、独り冥界に君臨するハーデスにとって、生の息吹に満ちたコレーの存在は眩しかった」
花の芽吹きと彩りを司り、大地に色彩をもたらす春の女神。“コレー”(乙女)の名に相応しく純粋で曇りのない心と、生命の息吹を吹き込む活力に満ちたその姿は、冥界の王たるハーデスとはまったく真逆の存在だった。
「だけど、ハーデスとコレーの結婚をきっとデメテルは許さない。娘を溺愛するデメテルは、誰にも娘をやるつもりがなかったし、コレーもきっと母と離れる事を悲しむだろう」
もしかしたらその想いは、悠久の時の中に消えていくべきものだったのかもしれない。コレーの事を思えばこそ、暗い冥界へ連れ行く事に躊躇いがあった。
だが、そこへ思わぬ協力者がハーデスの前に現れた。
神々を統べる王にして、ハーデスの兄、そしてコレーの父であるゼウスが、ハーデスとコレーの婚姻を認めたのである。
ゼウスの許しを得て、ハーデスはコレーを迎えるべくニューサの丘へと向かった。
ハーデスは己の姿を水仙の花へと変えると、コレーの訪れを待った。ニンフたちと花摘みに夢中になっていたコレーは、水際に咲くひときわ美しい水仙を見つけると、魅せられるように手を伸ばした。
そして、その指先が花弁に触れた瞬間、首のない馬のひく馬車が割れた大地の隙間から現れたのである。コレーの略奪はあっという間だった。叫び声も上げられず、ニンフの誰一人として気づかぬうちに、コレーは冥界へと連れ去られたのである。
「ああ……あの日とまったく同じだね」
アローンはの髪を撫でながら、そっと呟く。
地上よりを奪い去った今日と言う日は、ハーデスがコレーを奪い去ったあの日と酷似している。
は泣くだろうか。神話の中のコレーと同じように。地上に帰りたい、デメテルの元へ戻りたい、と。
愛する人のことを悲しませたかったわけじゃない。ただ、春の日差しにも似た柔らかな光で、微笑と共に照らして欲しいと願っただけだ。
だが、コレーは冥界に下りた後も泣き続けた。これがゼウスの許した婚儀だと説いても、コレーは聞かず、唯々ハーデスを拒み続けた。
「君も……泣いてしまうのかな。だけど、ごめんね。もう地上には帰してあげられないんだ……」
略奪して来た花嫁だが、ハーデスはコレーを丁重に扱った。決して無理強いはせず、誠実を尽くし、コレーが心を開いてくれる日をただ待ち続けた。
だが、そんな日さえ長くは続かなかった。
コレーがハーデスに奪われた事を知り、悲しみに暮れたデメテルが女神としての仕事を一切放棄してしまったのだ。大地の女神が棄てた土地は荒れ果て、人々は飢餓に苦しんだ。ゼウスの説得にも一切耳をかかず、娘を返してと抗議するデメテルに、ゼウスもとうとう折れざるを得なかった。
そして、ハーデスの元へコレーを地上へ戻すよう、伝令神ヘルメスが遣わされたのである。
「大神が偽りを口にするなんてね」
強く、皮が裂けんほどにアローンは唇をかみ締める。だが、すぐに口元に不適な笑みが浮かんだ。
「ゼウスの命には冥界の王でも逆らえない。でも、ゼウスにも逆らえない掟が冥界にはあるんだよ」
その夜、ハーデスは初めてコレーを妻として抱いた。泣き叫ぶコレーを力任せに奪い、彼女の純潔を奪い去ったのだ。
そして、交わりを終えたハーデスはコレーに二つのものを与えた。
純潔を失った妻へペルセフォネという新しい名を。
そして、紅く宝石のように輝くザクロの実を与えた。
何も知らないコレーは、ザクロの実を口にした。それこそがハーデスのコレーを己が物とする、最大の罠だとも気づかずに。
冥界の物を口にした者は、冥界に属する。この神々の掟はデメテルにも、ゼウスにも覆す事は出来なかった。
そして、コレー――――ペルセフォネは口にしたザクロの実の数だけ、一年のうちの数ヶ月を冥界で暮らさなければならなくなったのだ。
娘のいない月を悲しみ、デメテルは大地に実りを与えなくなり、それが冬になったのだと言う。だからペルセフォネの帰還、春と共に大地は再び息吹を取り戻すのだと。
だが、ハーデスにして見ればそれはまったくの真逆だ。
ペルセフォネのいない月日こそ、冥界の光は途絶え、彼女が戻るその時だけ死した世界に躍動が蘇る。
「今度は誰にも邪魔はさせないよ。ゼウスにも、アテナにも。ずっと僕の側で咲き誇っておくれ」
アローンは眠りに落ちたの唇に己のそれを重ねると、そっと死の口付けを施した。
end
簡略ですが神話「ペルセフォネの略奪」について。
クロノスの子を両親に持つコレーにとって、自分の身分に似合う嫁ぎ先は多くなく、
実はゼウスはハーデスほど相応しい夫はいないと考えています。
なので、ハーデスに(デメテルに黙って勝手にですが)結婚を許してしまったし、
デメテルも説得しようとあれやこれやと手を尽くしました。
が、男たちだけで勝手に話を決めてしまった挙句、
愛娘を突然奪われたデメテルは大激怒。
職務を放棄したデメテルにより、動植物は死に絶え世界は滅びかけてしまいました。
そのため折れざるを得ず、ゼウスは大慌てでヘルメスを遣わした、というわけですが、
ハーデス様が哀れでならない……。