Text

盲目のプロセルピナ03





 ヒュプノスと名乗った男に連れられ、は森の大聖堂を訪れていた。道すがら枯れた森や死に絶えた動物の姿に恐怖で足が竦みそうになったが、アローンが待っているという言葉だけを信じ、はここにたどり着いた。
 普段は閉ざされている大聖堂の扉は開き、まるでを誘うように妖しげな空気が立ち込めている。
「さあ、あのお方がお待ちです」
 ヒュプノスに促されはゆっくりと歩みを進めた。
 暗い大聖堂の中に人気はなく、の足音だけが空しく響き渡る。は胸の前で両手を組み合わせ、祈るような気持ちで前に進んだ。
 早くアローンに会いたい。早く会って、無事を確かめ合いたい。
 お願い、無事でいて――――
 大聖堂の奥に広がるビロードのカーテンが、ヒュプノスの手によって開かれる。
 そこには、
「アローン!」
 巨大な絵画の前で微笑む大切な人の姿だった。
 は安堵と喜びでアローンの元に駆け寄ると、思わずその胸に縋りついた。
「良かった……良かった、無事で……」
 暖かな温もりは確かに生きた人間の証拠。アローンだけは生きていてくれた。ここにたどり着くまでずっとを苛んでいた悪夢は、やはり悪い妄想でしかなかったのだ。
「大丈夫だよ、
 頭上から降る優しい声に、は顔を上げる。そこにはいつもの優しい微笑みがあり、どんな悪い事でも嘘のように溶かしてくれる。
「大丈夫だよ。僕はどこへも行かない……ずっと一緒だって、約束したよね」
「うん……うん……」
 の頬を濡らす涙を、アローンの指先がそっと撫でた。そして、ゆっくりと――――その微笑を讃えた顔が近づいてくる。
「え、ア、アローン?」
 至近距離に近づいた顔に、が戸惑いの声を上げた瞬間、アローンの柔らかな唇がのそれに重ねられていた。
 突然のキスに驚きが慌てて身を引くと、アローンはそんな様子をからかうようにくすくすと笑みを零した。
「恥ずかしがらなくてもいいのに。恋人なんだから」
「で、でも……」
 なぜそんなに堂々としているのか、そちらの方がには理解できない。確かに二人はアイリスの花を贈りあった仲で、も将来はきっとアローンの奥さんになるのだと思っていた。
 だけれど、アローンはいつでも紳士的で、決して手を繋ぐ以上の事を求めた事がない。お互いの愛を確かめ合っても、とアローンはキスさえした事がなかったのだ。
「嫌だった?」
「い、いやじゃないけど……驚いて……」
 耳の先まで真っ赤に染まっていくのが分かる。まさかアローンがこんなに大胆になるだなんて思っていなかった。しかもあちらは照れた様子すらなく、まるで続きを求めるようにゆっくりととの間合いを詰める。
「ねえ、あの約束覚えてる?」
 の頬を撫で、囁くように耳元で告げる。
「え……?」
 聞き返した瞬間、アローンの唇がの耳朶に触れた。
「互いにアイリスを贈り合って、誓ったよね。生涯、君だけを愛するって」
 くすぐるように撫でられ、はびくりと身体を震わせる。
「その約束を今果たすよ。でも、生涯じゃない――――今生も来世も、必ず君を探し出し僕の妻にする」
「アローン……何を、言っているの……?」
 今にも泣き出しそうな顔でアローンの顔を見上げるは、ただただ混乱に翻弄されるばかりだ。
 思い出して――――
 アローンがそっと耳元で囁く。
「僕たちは遥か昔から夫婦だったんだよ? 何百年も何千年も前から、僕の妻は君ただ一人だった」
 アローンの束縛から逃れようと伸ばした指先を、空中で受け止められる。指先を絡め、手の平を重ね合わせ、アローンの体温が伝播する。
「神話の時代から、僕は君に惹かれ続けていた。あの時代から、僕は君だけが欲しかった」
 腕を引いて抱きしめられると、アローンの鼓動がまるで自分の鼓動のように伝わった。
 いつもは安らぎを与えてくれるその音が、今は不安ばかりを掻き立てる。
 目の前にいるのは自分の知っているアローンなのに、世界で一番大好きな人なのに、まるでまったくの別人に変わってしまったように、の心は黒雲に曇る。
「思い出して。ニューサの丘でのこと。思い出して。ザクロの味を」
 の空色の瞳にアローンの顔が近づいたかと思うと、柔らかな唇が二度目の口付けをに与えていた。
 先ほどよりも深く、長く、意識が遠くなるほどに苦しく――――そして甘い。
 この味は、ザクロの味だ。
 そう気づいた時にはすでに遅く、の四肢は力を失い、意識はゆっくりと暗闇の奥へと落ちていった。
 の両目が閉ざされた事を確かめ、アローンはの身体を抱きしめると、その身体を両手に抱き上げた。大切そうに、羽を抱くようにその身を抱きしめ、
「さあ、行こう。我が妃よ」
 彼は冷徹な笑みを浮かべて、を連れ去ったのだった。




end


ザクロとこの二人は意味合いの強い果物です。
ギリシャ神話の冥王と奥方の物語は次回にでも。