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098.手と手合わせて





 なぜだろうと、ふと思う。
 つい先日までそんな昔の出来事などすっかり忘れてしまっていた。あの世界中を巻き込んだ大喧嘩から半世紀以上が経ち、国交も元通りになった。なかった事にはならないが、それはもはや過去として頭の奥底にしまわれる記憶の一部である。おそらくこうして呼び起こされなければ、時間とともに完全に風化するはずだった記憶だ。
 確かに昔 ―――― そんな事をハワードに愚痴ったことがあったかもしれない。
 国の記憶というのは厄介だ。自分の事を容易く忘れてしまう。国民や国の大切な記念日の事は忘れないのに、自分個人のものは一番後回しにされて簡単に失われていく。
 あの時あんな顔をしていた、あの時こんな事を言った、あの時あんな風に想っていた ―――― そういうものを忘れてしまう。だから古い新聞なんかを見ると、なんで自分はこんな顔で映ってるんだと、つい文句を言いたくなるのだ。
『イギリスさん、この時すごく嬉しそうだったじゃないですか』
 そう言ったのは愚痴を聞いていたハワードだった。
『そ、そうか?』
『そうですよ。この日はすごく上機嫌でたくさんお酒も召し上がって……べろべろに酔っ払って大変だったんですから』
『俺は覚えてないぞ。お前の記憶違いじゃ、』
『ありませんよ。僕の記憶力がいいのは貴方が一番ご存知でしょう?』
 そう言われてしまえばイギリスは反論の言葉を失う。優秀な側近の一人だと、その能力はイギリス自身が認めているのだ。
『それで……なんで俺はそんなに浮かれてたんだ?』
 まったく覚えていないのか眉根を寄せて尋ねたイギリスに、ハワードは少しだけ悲しそうな笑みを向けた。答える代わりに新聞の日付を指して見せる。
 1911年7月13日。
『あー、日本との同盟の……二回目の改定の日か?』
『それは覚えてるんですね』
『ばっ、馬鹿にすんな、1000年前の事だって忘れてねぇよ!』
『でも、ご自身の事は覚えていらっしゃらないでしょう?』
 イギリスは再び反論の言葉を失う。
 その通りだ。あの日、あの時、何が起きたのか歴史的事実は決して忘れないが、その時自分がどうだったかは簡単に忘れてしまう。もしかしたら人間の記憶よりも脆いのではないかと思ってしまう。
『そりゃ……覚えておくだけ重要な事じゃなかったって事だろ?』
 その時、珍しくハワードは不満気な顔を見せた。つまらない事でへそを曲げたりしない男だったが、その時ばかりはイギリスが教えてくれと頼み込むまでその理由を言わなかった。
 ハワードは不服そうな顔のまま新聞の白黒写真を指さした。小さく奥の方に東洋人の顔がある。タキシードを着込んだ日本と、イブニングドレス姿の ――――
『あ……』
『思い出しましたか? あの時、貴方まるでご息女を社交界デビューさせる父親みたいでしたよ。は俺が育てた! ってまぁ、本当の育ての親が横に居る前で上機嫌で……』
 ハワードの言葉を皮切りに、地層奥深くに埋もれていた記憶が蘇る。
 そうだ。日英同盟の二回目の改定の日。ロンドンで開かれた晩餐会。
 はイギリス海軍の様式を学ぶためにロンドンに学びに来ていた。調印式に呼ばれていた日本と晩餐会で再会し、の覚えの早さを褒めた。俺が育てたんだから当然だ、と胸を逸らして。するとは恥ずかしそうに、日本は嬉しそうに笑った。それからを一時帰国させる話になって、良ければイギリスさんもどうぞ、まだ寒い日が続きますがきっともうすぐ桜が満開に ――――
『いや、忘れちまった』
 イギリスは手にした新聞をぱたんと閉じると、それをハワードの胸へと突き返した。驚いた顔のハワードへ、そして自分自身へ冷えた声で注げる。
『今はもう関係ない。敵の話なんてするな』





 なぜだろうと、ふいに思う。
 つい先日までそんな手紙が存在した事などすっかり忘れてしまっていた。あの世界中を巻き込んだ大喧嘩から半世紀以上が経ち、国交も元通りになった。なかった事にはならないが、それはもはや過去として頭の奥底にしまわれる記憶の一部である。おそらくこうして呼び起こされなければ、時間とともに完全に風化するはずだった記憶だ。
 もはや自分の事は思い出せない。あの時、自分はなぜ手紙など書いたのだろう。
 どうせ届かない、渡せない、綴った所で何の実りももたらさないそれを、どうして何通も書きしたためたのだろう。
 もしかしたら忘れてしまったいたかったのかもしれない。書き綴る事で、頭の中に渦巻く気持ちを紙の上に流しきってしまいたかったのかもしれない。
 あるいは忘れたくなかったのかもしれない。自分の記憶という曖昧で不確かなものは、やがてこの感情を忘れてしまうだろう。新たな歴史の一ページが開かれる度に、自分の記憶は失われていく。伝えられないその想いを、せめて紙に残し事実であった事を証明したかったのだろうか。
 今となってはそのどちらだったのか分からないけれど、ただ確かである事は ――――
「イギリスさんっ!」
 名を呼ぶとブラウンのトレンチに身を包んだ彼は、慌てた表情で顔を上げた。その拍子に彼の手にした箱がこぼれ落ち、地面に弾んで、まるで鳩がマジシャンの帽子から飛び出すように白い手紙が風に舞った。
 何枚も、何枚も、書き連ねたそれが、自身忘れ去っていた言葉が、飛び出す。
「本当は……渡さない、つもりだったのにっ……」
 全ての手紙の封が解かれ、秘められていた言葉が溢れ出す。もはやどんなに取り繕っても、届いてしまったそれを元に戻す術はない。
「手紙、読んでしまったのですか?」
「……お前も読んだのか? 俺の」
「困ったものですね。お互い世話好きな部下を持って……」
「ああ、全くだ」
 今更照れくさくて、どんな話をすればいいのか分からない。自分ですら何を書いたのか覚えていないのに、どうすればいいのか。
 ただ確かであるのは、今互いに手にした相手の言葉。決して届くはずがなかった半世紀も前に綴られた想いが、あの時伝えたかった本当の気持ち。
 目尻に浮かんだ涙を指先で拭っては笑う。
「今年も……綺麗な桜ですね」
 花で埋め尽くされた空を仰いで、イギリスも答える。
「ああ。あの時と同じ色だな」

end


「すれ違いから」始まった、モブ絡み三連作これにて完結です。
なお、作中のハワード君はおじいちゃんのほう。