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093.焦燥感





 特別、目ざといという訳ではないけれど ―――― 好きな子の事なら、気づかないわけにはいかない。
 あれ、雰囲気変わったかな? とすれ違いざまにふと思った。
 髪を切ったわけでも、香を変えたわけでもない。
 なんだろうと逡巡し、そうだ、唇がほのかに色づいているのだと気づいた。
 いつもより少し濃い桃色。
 白い肌に映えるそれが気になって仕方がなくて、ついつい目線が唇に行ってしまう。
 艷やかで柔らかそうなそれを、輪郭をなぞるように眺めてしまい、悶々と抑圧された下心に苦しむ。微笑みを向けられるだけで、実は誘っているんじゃないかと都合のいい妄想を広げてしまう。
 本当はも俺の事が好きで、俺のことを試しているのかも、とか。実は俺から接吻されるのを、待ってるのかも、とか。
 普段は余裕に満ちた知らぬ顔の半兵衛も、こと色恋沙汰には余裕が無い。
 追われる恋ならいざしらず、自分が追って、振り向かせ、恋を自覚させ、相手にも想わせる ―――― まったくの不利なこの状況を、どうやって覆せばいいのか頭を抱えるばかりだ。
「あ〜、もう、何なのあれ。どういう事なの? 官兵衛殿どういう育て方したの?」
 仕事もせずに気がそぞろになっている同僚へ、官兵衛が返すのは、知らぬ、の一言。
 だが、半兵衛は知らぬじゃないってば! と文机をドンと叩いて声を荒らげる。
「だって、あんな色……反則だよぉ。あれじゃ、誘ってるみたいじゃん! なんなの、は俺に押し倒されたいの? 襲われたいの!?」
 それはあり得ぬ、と冷静に官兵衛は突っ込んだが、半兵衛はそれをまるきり無視し、頭を抱えて顔を伏せる。ああ、もう! と鬱憤を溜めた声が響く。
「あんな鮮やかな色してたら、もう唇以外見れないじゃん……」
 いつもの不適な態度はどこへやら、半兵衛らしくない消沈した姿に官兵衛はため息を漏らす。
「では、試してみれば良かろう」
 悪魔の囁きの如く告げると、半兵衛はぴたりと身体の挙動を止めた。
「もしあれが卿の想像通り気があるのなら、卿の誘いを断らぬはずだ」
「………」
 無言の背中から、途方も無い葛藤が脳裏を占めているのだろうと想像する。
 そして数秒後、出来るわけないじゃん、と弱々しい声が返って来た。
「俺、のことホントに好きなんだよ。そんな事……絶対、無理」
 勝手な妄想を広げるわりには臆病で弱気、官兵衛には言いたい放題をするくせにの前ではまるで借りてきた猫のようだ。内心は下心だらけのくせに、本人には肩を抱くことは愚か、事故を装って触れることすら出来ない。
 まったくこの男は……
 官兵衛は呆れるようにため息を漏らすが、その何割かは安堵のため息である事を本人も知らない。
「せいぜい他の男に持っていかれぬよう、目を光らせて置くことだな」
 半兵衛の焦燥感を煽るには十分過ぎる助言を告げ、その実、官兵衛は楽しそうに目を細めたのだった。




end


珍しく余裕のないはんべでした。