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090.崩壊寸前





 はらはらと房になった髪が花びらのように落ちた。
「これでおしまいっと」
 かちん、と音を鳴らして、半兵衛が手にした剃刀をしまう。そして、床に散った髪の毛をぞんざいな手つきで脇に跳ね除けると、の正面に座りまじまじと凝視した。
 髪の短くなったの顔を色々な角度から眺め、いいねぇ、いいねぇと賛辞を上機嫌で繰り返す。
「半兵衛様……」
 は居心地悪そうに顔を背けていたが、ふいに顎を捕まれた。こっちを見てよ、と低い声でささやかれおどおどと視線を上げる。
「長い髪も好きだったけど、こっちもいいね。あはっ、やっぱ俺って天才。これからこの髪型にしなよ」
 そう告げて、まるで猫の仔をなでるように短くなった髪ごと頭を撫でる。だがにはその半兵衛の掌が恐ろしくて仕方がなかった。
 部屋の片隅にはめちゃくちゃに切り裂かれた打ち掛けや、無残に折られた簪が転がっている。今を撫でているこの手がした事だった。
 どこで狂ってしまったのか、には想像もつかない。彼は優しい恋人だった。否、だったはずだ。いつでもそばに居て、一緒に書物を読みふけったり、ひなたぼっこをしたり、甘味を食べたり、そんな事だけで穏やかな気分になれる陽だまりのような人だった。
 それが何時の頃からか、半兵衛は変わってしまった。何がきっかけだったのか分からないが、ある日を境に、妙にに執着を示すようになったのだ。
 人に見られるような場所での、抱擁や接吻を強要するようになった。半兵衛が居ない時間、誰と何をしたのか報告を義務付けるようになった。身に付けるものはどういう経緯で手に入れたのかはっきりさせ、自分以外の男からもらったものは、たとえ義理で贈られたものでもすべて処分された。そしてついに今日、髪が長ければまた簪を贈られる口実を作るからと、の髪を切ってしまったのだ。
 独占欲を超えている。恋愛という生活の一部であるはずのものが、生活そのものを蝕み始めている。
 私はこの人の手が恐い。
 は自覚していたが、嬉しそうな顔で髪に触れ、感触を楽しむように頬を滑るその手を振り払うことが出来ない。悪戯好きのその手はの首筋を撫で上げ、やがて重ねあわせた襟元に潜り込もうとする。いつの間にか目の前の男の呼吸に熱が混ざったことを、把握する。
。ねえ、
 懇願するような切なそうな顔でありながら、どこか脅迫めいた暗い色の瞳がこちらを見上げた。
 啄むような口づけを施しながら、その合間に言う。
「俺はさ、ただ君に愛して欲しいだけなんだよ?」
 ねえ、わかる? ねえ? と ―――― 繰り返しながら、半兵衛はきっと返答など求めていないのだと、口を塞がれながらは思った。
 愛していないわけではないのに、の好意はなぜか半兵衛には伝わらない。の向ける愛情は、半兵衛には物足りなく彼の心に充足感を与えることはないのだ。
 その事をただ、悲しく思う。
「私は……貴方が好きです」
 精一杯伝えたつもりだったが、何故か半兵衛は首を横に振り、それ以上の言葉を拒むように口づけを深めた。
 頭の芯が痺れるような感覚に、意識がどこかへ飛び立ってしまいそうな恐ろしさを覚える。吐き出す熱と熱と合間に、半兵衛が搾り出すような声で言う。
「ねえ……俺を、もっと、愛して」
 言葉の意味を問いただしたがったが、自由にしゃべる権利すら半兵衛の唇に飲み込まれ失われてしまった。




end


好きすぎて相手の愛情を信じられない泥沼。