イタリア人の特徴を真似たくるりと丸まった髪も、小洒落て着慣れないイタリア製のスーツも、ぴかぴかに磨いた靴も、スマートな腕時計も、ふわりと香るトワレもすべて全部。
本当は何もかも、あの細められたセピア色の目に見透かされているんじゃないかと思うと、それは狂いそうなほどの恐怖だった。いつでも僕の首を締められる位置にあるのに、いつでも引き金を引ける場所にいるのに、そうしないのは一体どうしてなのか。
考えれば考えるほど、恐怖と不安で精神が削られていく。
もしかしたら猫がネズミをいたぶるように、僕が憔悴してそれでも表だけは陽気なイタリア人を演じているのを、笑いながら見ているのかもしれない。ちょっとした戯れ、暇つぶしなのだとでも言うかのように。
それを思うと僕は怖くて怖くて仕方がない。
嗚呼、祖国。栄光なる我が祖国よ。
どうか僕の心が折れてしまわないようご加護を。
084.暇つぶし
「あの……どこかでお会いした事が?」
夜空を閉じ込めたような黒い大きな瞳に見つめられて、思わずハワードの心臓はどきりと跳ね上がった。スパイとして働く、自分の正体がバレたのではないかと案じたからだけではない。質問の主が、かつて祖国と肩を並べて歩いていた東洋の小国だったからだ。
「いいえ。貴方のように素敵な方となら、会った事を忘れたりしませんよ」
笑顔で否定し、ついでに歯の浮くような台詞を重ねると、少女は顔を真赤にして頭を下げた。
「す、すみません! 誰か知り合いに似ているような気がして……あ、でも、きっと勘違いですから、忘れてください!」
「そうですか? あ、僕はハワードと言います。先月からイタリアさんの第三秘書官を務めていまして……あ、これ、僕の番号です。お仕事でもプライベートでも構いませんので、もしお困りの際は、」
そこまで言いかけて、背後からこーらぁと間延びした叱責の声が響いた。
振り返れば上司であるイタリアが、腰に手をあてて頬をふくらませて立っている。
「もー、俺を差し置いてナンパなんてしちゃダメー! もそういうの逆ナンって言うんだからね」
ぽこぽこと湯気を立たせて怒るイタリアを、は違います、そんなつもりじゃないです、と宥めている。どうやら注意は自分から逸れてくれたらしく、ハワードはほっと密かに安堵の吐息を漏らした。
本田と直接の面識はない。
祖国と日本が同盟を組んでいたのは、いまよりずっと昔のこと、ハワードが子供だった頃の話だ。日本がイギリス海軍を手本に海軍を設立するため、本田を英国に寄越したのもその頃の話。何かの式典でイギリスとが肩を並べて立っている姿を遠目に見たことがある、その程度。
だが、ハワードはその光景を今でも忘れない。白い軍服を纏った東洋人の少女の事よりも、その少女と肩を並べ柔らかく笑む祖国の姿を、忘れられなかったのだ。
彼がイギリスの部下になってから、イギリスの口から一度もの名を聞いた事はない。あの頃の面影を残すものは、イギリスの執務室のどこにも残されていなかった。
彼が日本という国ごと彼女を忘れた事の証拠であるのなら、ハワードは今これほどに動揺していない。古きを良しとし思い出を大切にするイギリスが、まるでその場所だけ歴史の中から切り抜いてしまったかのように、を連想させる全てをあの部屋から消し去った ――――
その事がどれほど重大で、問題のある事なのか優秀な部下であるハワードに分からないはずがない。
そんな人物と異国で出会ってしまった偶然に、ハワードは自分の運のなさを呪いたくなった。まさかヨーロッパで極東の小国と、しかも他の秘書官が留守にしている今日、出会うなど思いもよらなかったのだ。普段であれば第三秘書官である自分に、こんな風に他国の要人の接客を任されることなどあり得ない。
「でも、ほんとハワードもにだけは手を出さないでよねー。国際問題だからね」
イタリアは未だぽこぽこと湯気を上げながら、ハワードへ釘を差してきた。が大袈裟ですよ、と苦笑を浮かべている。
「えー? でも俺、怒った日本を止める自信ないよ。怒ったらドイツより怖いじゃん」
「そんな事は……あるかもしれませんが、お祖父様だって無闇矢鱈に怒ったりしません。イタリア様が変なことをしなければ……」
「えー、変なことって?」
言っている側からイタリアはの背後にまわり、ぎゅっと後ろから抱きしめた。は真っ赤になって人前でやめてください! と怒っているが、イタリアは構わず猫のようにすりすりと頬をすり寄せている。
「あはは……仲が大変よろしいようで」
ハワードの口から乾いた笑いが漏れる。
「当たり前じゃん。今は俺の恋人だもん」
「ちょっ、誤解を生むようなこと言わないでください! あれは同盟の調印を、」
「えー? だって国の同盟ってそういう事だよ? 調印式でキスするのもそういう意味でしょ?」
途端にハワードの心はすうっと氷を呑み込んだように冷めていく。
今更驚くことではない。それは国と国が同盟を結ぶ時の慣わしだ。信頼と親愛を示す口づけ、普段は手の甲に落とすそれをイタリアはあろうことか唇に寄せた。それだけ熱烈にこの同盟を喜んでいるのだと、外向けの宣伝をしているのだと思った。そう思いたかった。
だが、あの時のイタリアの夢見るような目はまるで恋に落ちたようなそれで ――――
ハワードはあるデジャブに襲われる。かつてあのエメラルドの瞳が、夢に溶けるように輝いた瞬間を、彼は知っていた。新聞で読んだのか、ラジオで聞いたのかわからない。だが自分はあの光景を知っている。国民が皆、知っている。なぜなら彼はハワードの祖国、イギリスそのものだからだ。
呑み込んだ氷の塊は、胃の奥底で溶けるどころか凍傷を起こすかのように激痛を生んだ。
目の前で黒髪の少女にじゃれつくイタリア人を、自分は今どんな目で見ているのだろう。
これは嫉妬だ。イタリアへの、醜い嫉妬。部屋の中からどれだけ彼女の痕跡を消し去っても、その存在がなくなるはずがない。今まざまざと新しい男の姿を見せつけられている、ハワードの目を通して、彼の元へと。
「でも嬉しいなあ。俺これからずっとと一緒にいられるんだ」
イタリアの声にハワードははっと我に返った。
「そんな……大袈裟ですよ。今は同盟国です。要請があればいつだって、」
「そうじゃなくってさ。同盟も嬉しいけどこうやって君の近くにいれるってこと。俺ずっと君に憧れてたんだよ? 今まで周りのやつが怖かったから、なかなか触れられなかったけど」
「周りのやつ?」
ハワードは目を見開く。を背後から抱きしめたイタリアが、あのセピア色の瞳でハワードをじっと見据えていたのだ。
くすり、と唇が弧を描いて、
「イギリスとかさ。ま、今度はあっちが地団駄踏む番だけどね」
end
このイタ様はハワード君がイギリスのスパイだって知ってます。
知りつつ泳がせて、様子見に挑発してみたり。
国は自国民かそうじゃないか、超常的な感覚で分かっちゃったりしそう。
ヘタレは世を忍ぶ仮の姿とか……イタちゃん、恐ろしい子!