083.絵空事
その言葉はいつもの冗談の延長のように聞こえた。
「ねえ、俺と逃げちゃわない?」
手を握られ、あまりにもイタリアが真面目な顔をするので、は一瞬反応が遅れた。その一瞬の合間に驚きと、あり得るはずもない逃亡生活が脳裏をよぎり、そしては微笑んだ。
「それも良いかもしれませんね」
と。
とある野営の夜のこと。火の番をしていたイタリア ――――
と言っても、が来るまでうつらうつらと船を漕いでいたのだが ――――
の元に、がやって来たのだ。
眠れないのです、とどこか憔悴しきった顔で言う。先日の激戦の光景が忘れられず、最近のは寝付きが悪くなっていた。
戦、屍、硝煙と血の匂い。そんなものは何百年も昔から当たり前のように繰り返されているのに、胸の奥の不安が日に日に深くなっていく。途方も無い戦争の行き先を予見し、心が悲鳴を上げている。
そんなに向かってイタリアが告げたのが、冒頭の言葉だ。
だったら俺と逃げちゃおう。こんな戦争ほっぽって。
「うん、そうしよーよ。誰も俺たちが国だなんて知らないんだから、人間の中に紛れちゃえばわからないよ」
話しながら、イタリアは焚き火で淹れた紅茶をに差し出す。砂糖をたっぷり入れたうんと甘いやつだ。そうでしょうか、とは苦笑を漏らす。
イタリア一人ならもしかしたら、それも可能なのかもしれない。だが二人で逃げるとなれば、異なる人種の男女は逆に目立つのではないだろうか。
だが、イタリアはそんな事ないよ、と根拠なく力説する。
「若い男女に国境なんて関係ないよ! 俺が君の黒髪に惚れ込んだって言ったら、絶対みんな信じるよ!」
あまりにもイタリアが力強くいうので、欧州ではそういうものなのだろうかとは妙に納得してしまった。もっとも端からこんな絵空事にリアリティなど不要なのだろうが。
「俺んちの田舎の方でさ、古くてもいいから家を借りて、そこで一緒に暮らそうよ。一階はランチも出来るピッツァリアにして、夜はワインも楽しめるようにして」
「じゃあ、ドルチェも用意しないとですね」
が話に乗ってくれたのが嬉しかったのか、イタリアはにっこりと微笑んで頷いた。
「うん。ティラミスとジェラート。食後にはカプチーノ」
「イタリア様がシェフですか? たまに私にも料理をさせて欲しいです」
「いいよー。じゃあ、水曜日は日本食の日! の作った肉じゃがとおでんでお店は大繁盛!」
思わず自分の好物を上げたイタリアに、はくすくすと笑みを零す。ずっと昔に一度作ったきりなのに、覚えていてくれたことに胸が暖かくなった。
「ふふ、もっとたくさん美味しい日本料理はあるんですよ。塩鮭とか、鯖の味噌煮とか、いくらとか、明太子とか……」
「ヴェー、全部塩分多いやつじゃないの? 俺しょっぱすぎるの苦手だよぉ」
「じゃあイタリア様向けに辛すぎないのも作りますね。たくさん……たくさん、美味しいご飯を食べましょう」
呟く内に、潤んだ瞳から涙がこぼれ落ちて、思わずはそれを袖先で拭った。だが、眼の奥からこみ上げる涙は絶え間なく流れ続ける。
「ごめ……なさい、こんな、泣くつもり……なかったのに」
泣き笑いをするを、イタリアは黙って抱きしめた。震える肩を撫で、熱を持って熱くなった瞼にキスを落とす。
「いいんだよ、俺の前なら泣いても」
「ごめ……な、さい。ごめんなさい……」
何度も謝りながら、はぼろぼろと大粒の涙を零した。
こんな風に泣いてしまったのはきっと心が弱っていたから。弱った心にイタリアの語る絵空事は優しすぎて、つい夢を見てしまいたくなる。訪れるはずのない未来でも、少しだけ今を忘れる事が出来る。
あやすようにの背を撫でながら、イタリアは静かに告げる。
「もし怖くて辛くてどうしようもなくなっちゃったら、その時は俺の手を取って」
一緒に逃げよう ――――
?
end
色んな人をおいて逃げられるはずないんだけど、
たまには空想に救いを求めたくなることもある。
国は人じゃないけど、神様とか悪魔みたいに強くない、
人に作られたからこそ弱い存在なんじゃないかと思ったり。