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055.夕立





 初夏の湿気を孕んだ雨雲が太陽を覆い隠して、とたんに空は暗転する。憂鬱で、湿気っぽくて、生ぬるくて、だが瑞々しい、そんな雨をこの季節は繰り返す。
 いわば季節の病。夏を迎えるための通過儀礼だ。
「そこの可愛いおじょーさん、傘もささずにどうしたの? 綺麗なおべべが台無しよ」
 縁側の屋根の下から声をかけると、ゆっくりと白い顔がこちらを見た。
 水を含んだ黒い瞳はいつもより艷やかで、思わずほうと溜息を漏らしたくなるような色気がある。雨を吸って白い頬に張り付く黒髪も、ぐっしょりと重く水を含んだ振り袖も瑞々しい。紫陽花を手折っていた白い指先が、花を求めて伸ばされる。
 その光景がまるで季節の一瞬を切り取った一枚の絵画のようで、嗚呼、綺麗だねぇとフランシスは思わず呟くのだ。
「あんまり切ったら可愛そうだよ。良かったらお兄さんにも一輪くれない?」
 返事はしないが、は手折った紫陽花を携えて縁側の方へと歩んできた。色鮮やかな青をフランシスの前に差し出す。
「メルシィ」
 礼を告げて、やはり言葉を発さないにフランシスはにこりと微笑みかけた。指を伸ばし、逃げられないのを確認してから、白い頬に触れた。雨ですっかり冷えきってまるで氷のように冷たい。
「冷たいね。お兄さんが温めてあげようか?」
 言葉は返さないくせに、はふるふると首を横に振った。その返事がおかしくて、フランシスは笑いながらの身体を抱き寄せた。形ばかりの抵抗を押し切って腕の中に抱きとめると、シルクのシャツにじわりと雨が染みこんでくるのを感じた。そして冷たさの後にの体温を感じる。
 いつの頃からか、何かあった? と聞かなくなっていた。付き合いが長くなるにつれ、この季節はどうやら日本人は塞ぎがちになるのだと知ったからだ。ぼうっとするというか、の祖父である本田菊しかり、話しかけなければ日がな一日窓を流れる雨粒を眺めて過ごしているのではと思うくらい物思いに耽るのだ。想うことは人それぞれだろう。国であるなら考えることはなおさら尽きない。
 付き合いが短かった頃は、この季節の来日を退屈に感じたものだが、やがてそういう景色も風流に感じるようになった。
 しとしとと止まぬ雨に薄暗い空、鮮やかな紫陽花に、物憂い顔の日本美人。
 なかなか絵になるじゃないか。
 お喋りは口から出る言葉ばかりではない。紫陽花を抱えた美女を侍らせて、雨音に耳を澄ませるのも悪くない。
「フランシス様は不思議なお方ですね」
 ふいに胸に顔を押し当てていたが瞳を薄く開けつぶやいた。
「どうして?」
「普通、こんな格好でずぶ濡れになっていたら、気でも違ったのだと思うでしょう? 何があったのかと聞くはずです」
「ああ、そうかもねぇ」
 なんとなく ―――― 普通という言葉の裏に、誰か特定の人間が居るのではないかと勘ぐってしまった。
 まあ、見知った欧州の奴らでも、この光景を見れば風流など感じる前に驚くはずだ。女性にはそれなりに紳士的な奴らだから、傘を差し出して、あるいは濡れた着物ごと抱き上げて家屋へ戻るよう促すかもしれない。
 濡れてなくてもこの時期は物憂げな顔をしているから、開口一番何があった、どうしたと詮索するかもしれない。
「なぜ聞かないのです?」
 不思議そうに黒い瞳が真下から見上げている。
 なぜってねぇ、と苦笑を漏らす。
「季節の病でしょ。雨が降れば気分も滅入る。毎日降れば想う事はそりゃ色々あるよね。それにね」
 フランシスは言葉を続ける前に、ちょんっと自分の鼻先をのそれに触れ合わせた。まるで猫の挨拶のようなそれに、は少し目を開く。
「お兄さん綺麗なもの好きだから。雨に濡れてるちゃんって結構色っぽいのよ?」
「………」
「あ、褒め言葉だからね? 他の季節も十分可愛いし、綺麗だよ」
 不可解ですと言わんばかりのジト目がこちらを見上げるが、フランシスはそれを無視して上機嫌での髪を撫で上げた。
 雨を吸った髪は普段よりも艷やかで艶かしい。
 女性の気分を天気に喩える言葉があるが、移り気なそれを疎ましく思うより、包み込んで愛すればこそその良さも分かってくる。濡れるのを厭ってすぐにタオルで包んでしまえば、その瑞々しさも感じる事は出来ないだろう。
 この姿を愛さない奴は馬鹿だな。
 そんな事を思いつつ、この国の四季は美しいとフランシスはしみじみと感じるのだった。

end


特に意味もない雰囲気小説です。
世界のお兄さんは移り変わる季節すら愛してくれそう。
しかし、はなはだ季節違いですな。