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041.水しぶき





 不思議なものだった。
 ローレライの声に耳を傾けはならないと、ライン川と共に育つ者たちは子供の頃から言い聞かされているというのに。
 その声は透明で甘く、神秘的で、微睡みたくなるほど心地良い。
 オデュッセウスが魔女キルケーの忠告に従い、荒縄で身体をマストに縛り付けなければならなかった理由がそこにあった。ホメロスの叙事詩を知る者ならば、なぜオデュッセウスが危険を犯してまでセイレーンの歌声を聞こうとしたのか一度は疑問に感じただろうが、その答えがそこにあったのだ。
 引きずり込まれると、ルートヴィッヒは錯覚した。
 岩場に腰掛けているものの、その下半身には足があり尾ひれもなく鱗にも覆われていないというのに、ルートヴィッヒはその姿をローレライだと感じたのだ。
 幻想に生きる人魚は、異国の歌を細い声で紡いでいた。
 詩の意味は分からないが、なんとなくそれが望郷の歌なのだとルートヴィッヒは感じた。遥か彼方の遠い日々へ郷愁の念を寄せるような、懐かしく暖かい、だが寂しい音色だ。
 カンツォーネのように陽気でもなく、セレナーデのように甘美で切ないメロディでもないのに、なぜこんなにも心を掴んで離さないのか。風の音にかき消されてしまいそうなそのか細い声が胸の奥をくすぐって、ぐずぐずと内側から溶かされているようだ。
 ローレライの歌声は船を沈める。その声に耳を傾けてはならない。
 昔から語られるタブーは耳にタコが出来るほど聞かされ続けて来たというのに、なぜその場を去ることも歌を中断させることも出来ないのか。
「あら、ルートヴィッヒさん?」
 人魚はルートヴィッヒがそうして背後で固まっている事に気づき、ふいに振り返った。歌声が途切れ、ルートヴィッヒは安堵するどころか、その事をひどく残念に感じてしまったのだ。
「歌を……歌っていたのか?」
 は恥ずかしげにはにかんだ。
「聞いていらしたのですか? お耳汚しでお恥ずかしいです」
「いや……何の歌なんだ?」
「我が国の民謡です。この風景が祖国に似ていたので……それを想って歌っていたのです」
 だからあんなにも切なく、悲しいのか。国を想う歌ほど、自分たちの心を震わせるものはない。
 恥ずかしそうにはにかんだまま、はそれ以上続けようとはしなかった。
 ああ、声をかけてはいけなかったのだと、ルートヴィッヒは後悔する。人魚は人間を恐れるのだから、近づいたら驚いて水の中に逃げてしまうに違いない。そして遠くの岩場に身を隠して、じっとこちらの様子を伺うのだろう。そんな光景をルートヴィッヒは夢想した。
「良かったら続きを歌ってもらえないだろうか」
「え? でも……」
 戸惑うはオペラのような力強い声量を持たぬ自分を、恥じているのかもしれなかった。
「いいんだ。君の歌が聞きたい」
 ルートヴィッヒの懇願に、は戸惑いながら唇を開いた。
 空気に溶けてしまいそうなか細い透明な声が、ルートヴィッヒの胸に心地よい振動を伝える。見たことのない彼の国の畔が瞼の裏に浮かび上がるようだった。
 ああ、焦がれるというのはこういう気持ちを言うのか。恋しさと切なさが耳から流れ込んでいき、肺の奥まで浸していく胸が苦しくなる。
 こんな歌声で誘われたのなら、船人は自ら川へ飛び込んでしまう。聞いてはならぬと固く戒められているのに。一体誰がオデュッセウスを咎められるだろう。



end


人魚の歌声が船を沈めるというのは定番。
途中からセイレーンの話と混同されてますが、
ローレライもセイレーンの一種とする説があるので、似たようなものだと捉えていただければと…
だってセイレーンの話かきたk(ry
ちなみに『オデュッセイア』のセイレーンのくだりはこんな感じ。


 船員たちが耳を蜜蝋で塞いだのに、オデュッセウスは栓をせずマストに身体を縛り付けセイレーンの歌声を聞こうとします。
 マストに身体を縛り付けていたので海に引きずり込まれる事はありませんが、歌声に支配された彼は自ら縄を解こうともがいたり、船員にほどくよう命じます。
 ですが、船員は皆彼がセイレーンの歌声に惑わされていると知っているので、誰も縄を解かず、無事セイレーンの島の横を通り過ぎる事が出来ました。
 自分の歌に自信のあったセイレーンはその事を恥じ、海に飛び込んで逃げてしまうのでした。