小さな頃から大切に手入れし、一度も損なうことなく伸ばし続けさせたそれは、日本女性の美の象徴であり同時に彼の誇りでもあった。どこに出しても恥ずかしくないと自負するほどに、彼はその黒髪を愛していた。
031.ひっそりと
「明日……髪を切ろうと思います」
ぴたり、と菊の手にした櫛が一瞬動きを止めたが、すぐに動揺を悟られないように動作を再開させた。
「……それはまた、急ですね」
菊の手の中での黒髪がさらさらと流れる。
「急ではないのです。じつは……ずっと考えておりました。洋装をする機会も増えれば、邪魔になってしまうと」
菊は無言で髪を櫛る。長い長い黒髪は、にとってもはや歴史の一部だ。幼い頃から伸ばし続けたそれに思い出や感慨がないはずはない。
それを ――――
邪魔だと言って切り捨てようとしているのが、菊には苦しく辛かった。
「……髪を束ねるのではいけないのですか? 西洋の女性も髪を束ねる事はおありでしょう」
いいえ、と振り返らぬままは首を横にふる。頭の動きに合わせ髪がさらさらと揺れ、菊はそれを悲しげに眺めた。
「それでも長すぎてしまうのです。せめて背の辺りまで切らなければ帽子を被れません。乗馬の時に邪魔になります。走ったり、泳いだりするのに、邪魔になってしまいます」
そんな必要があるのかと、文句の言葉を菊は懸命に堪えた。西洋化を推し進める上司の意向にしたがって、は積極的に欧州の文化を知ろうとしている。自分が外交の要であると自覚し、責任を感じているからこそ、髪を切ろうと決意したのだ。
それでも年甲斐物なく駄々をこねたくなってしまう。大切な宝が失われてしまうのは、やはり悲しく辛いものだ。
菊の悲しみを知るように、がそれに……、と言葉を続けた。
「いつか私も軍服を身に纏う事があるかもしれません」
菊の手の中でぱき、と櫛の歯が儚く折れた。
鼈甲の櫛がするりと手の中から抜け、菊は背後からの身体を抱きしめた。
すみません、すみません、と繰り返す菊の声は悲しみに沈み、わずかに涙が滲んでいるように聞こえた。
は菊の腕に手を重ね、静かに涙を零す。
「この髪は……私の誇りです。お祖父様に髪を梳いていただくのが嬉しくて、何よりも大好きでした。だから……だから、どうか貴方の手で私の髪を切ってください」
end
イミフすぎて実にすみません。
ヒロインにとって髪は自分の身体の一部みたいなもので、
日本中の海にそそぐ河みたいなもの。
それを切って外へ出ていこうとする、
近代化に向けて古い物は切り落とされていく、みたいな感じ。