この話には長編「盲目のプロセルピナ」のネタバレが含まれています。
問題ない方のみお進みください。
030.涙
「僕は君を泣かせてばかりだ」
伸ばした指先を拒まれるかと思ったが、それはの頬にたどり着き透明な雫を指先で受け止めた。
は頬に添えられたアローンの手に自分のそれを重ね合わせ、ぽろぽろと大粒の涙を零す。どうして、とその唇が声にならない声で問う。
「私は……あなたと人間として生きたかった。女神になんか、なりたくなかった……」
たとえ不遇な人生であったとしても、貧しくとも、長く生きられなかったとしても、それでも人でありたかった。そのためならば、女神の名を捨てられた。記憶も、力も、すべてを捨てて人間に転生したのは、それだけの覚悟を背負っていたからだ。
だが、の願い虚しく、アローンはハーデスの力に目覚め、聖戦は始まってしまった。
「僕も……君と一緒にいられれば、それで良かった……」
いつか自分はと結婚するんだろうと、幼かった自分はその未来を疑いもしなかった。貧しくても二人で一つの家で暮らし、子供をもうけ、一緒に歳をとっていければ、それが何よりの幸せな未来だと思い描いていた。
だが――――いつまでも純粋な子供でいられるほど、現実は甘くはなかった。
は不治の病にかかっていたのだ。の命が長くない事を知った花屋の主人は、に売春まがいの事をさせようとしていた。どうせ死んでしまうなら、その前に命ごと売ってしまおうと考えたのだ。
救いたかった。絶対にそんな事、許せなかった。
だが、アローンはを“買う”お金も、悪者を懲らしめる力も、を攫う勇気も持っていなかった。
「僕は弱かった。僕には……君を殺してあげる事しか、救える道がなかった」
これ以上苦しまないように、泣きながらの首を絞めた。正しくないと思っても、それ以上にできる事がなかったのなら――――それは決して間違いではないと感じた。
一度はを救えたと思った。静寂なる死の世界へ送ることが出来たのだと。
だが、アローンの予想に反し、は蘇った。女神の力が、の魂をこの世に留めたのだ。
「今また僕は、君を苦しめてる。聖戦が終わるまで、僕は君を悲しませ続けてしまう」
「違う……違うよ、アローン。私は……」
「言わないで」
アローンの指先が、の唇を封じた。は言葉を放つ代わりに、真珠のような涙を零した。
「死と再生の女神である君を普通の方法で殺す事は出来ない。だったら僕はロストキャンバスを完成させて、君にそれを贈るよ」
そうすれば、は、女神はこの地上から解き放たれて、静寂の世界で眠りにつく事が出来る。冥界の奥深く、エリシオンで何の憂いもなく、安らかな眠りにつく事が出来る。
「僕にしか君を殺す事は出来ない。君に安らぎを与える事は出来ない」
だったら、世界で一番大切な君をこの手にかけよう。何度でも君を殺そう。
それが僕の使命。僕の――――願い。
「ごめんね。こんな方法でしか、僕は君を救えない」
の双眸から静かに涙が零れ落ちた。
end
聖戦のきっかけ。