この話には長編「盲目のプロセルピナ」のネタバレが含まれています。
問題ない方のみお進みください。
022.面の皮
聖人を気取りながら神を騙って悪行を尽くす。
厚顔無恥の愚か者、それがきっと自分の正体だ。
そんな事、人に言われなくても分かっている。僕のこの手はもう消せないほどに真っ赤に血で汚れてしまっている。
「いいや、アローンよ。お前はまだ分かっていない」
ふいに響いた男の声に、アローンは黙々と走らせていた筆を止めた。
鳥籠のように閉じられた空間の向こうに扉が現れ、荘厳な鎧を纏った金髪の男が現れる。
夢の神、ヒュプノス。アローンをこの夢界に閉じ込めた張本人だ。
アローンは憔悴しきった瞳にわずかに鋭さを滲ませ、ヒュプノスを見やった。その視線を虚勢と受け取ったのか、ヒュプノスがふふんと鼻で笑う。
「罪に罪を重ねてもまだ懲りんとは。とんだ面の皮の厚さだな」
侮るような語調に、アローンはわずかに眉根をひそめる。
「ハーデスを騙った事を言っているのか? そんな事……いまさら責められようと僕は気を変えるつもりはない。ハーデスのままじゃ、救済は為しえないんだ」
だから神を騙り、この世に死を導く。一人の人間がするにはあまりに残虐非道な行為。この世のすべてを死に至らしめるなど、未だかつてこれほどの罪人など存在しなかった。
だが、アローンの決意に反し、ヒュプノスはそれを否定する。
先ほどよりもわずかに苛立った口調で、
「人間の身でありながら女神を穢し、殺したこと。それが貴様の最大の罪だ」
「……っ!?」
「うまく我等を謀ったつもりだったのだろう? 人間風情が小癪な。あの方の慈愛を踏みにじった挙句、純潔を奪うなど……殺してやったとしても一度や二度の死では殺し足りぬ」
ヒュプノスがこれほどまでに怒りを滾らせるのを、アローンは初めて見た。短気なタナトスとは反対に、いつも思慮深く、冷静で慎重なヒュプノスが感情を露わにするのを初めて目の当たりにしたのだ。
「それだけの大罪を犯しながら、今なお罪を重ねようとしているとは。我が主の器でなければ、八つ裂きにしてくれるところよ」
ヒュプノスの苛立ちに驚きつつも、アローンはそこに夢神の弱さがある事を悟った。
動揺を気取られぬよう、静かな声で応える。
「僕は……ただ、彼女を救いたいだけなんだ」
「なに?」
「と交わった時、僕は彼女の女神だった頃の記憶を見た。彼女は――――ペルセフォネはいつも孤独だった。君たちが聖戦に明け暮れる間、彼女はずっとエリシオンで独りだった」
「お前ごときが……あの方のお心を語るな」
「いいや、言わせてもらうよ。彼女は地上の支配にも、聖戦にも興味なんてなかったんだ。ただ静かに暮らしたかっただけだ。ハーデスと、君やタナトスと、静かに……あのエリシオンで」
「黙れ!」
ヒュプノスの放った衝撃派が、アローンの身体を跳ね飛ばした。痛みを覚えつつも、ハーデスの力を宿した身体は、無意識のうちに衝撃を和らげていたらしく損傷はない。
「僕は……すべてを死へと戻す。彼女が穏やかに暮らせるように。痛みも、苦しみもない世界へ彼女を戻してあげるんだ」
それが僕の救済――――
語り終えたアローンを、ヒュプノスの金色の鋭い目が捉えた。もし彼がただの人間の少年であったならば、きっとすでに命はなかっただろう。神をこれほどまでに怒らせる事もなかったはずだ。
ただの妄言。愚者の世迷言。
ヒュプノスはまるでタナトスがそうするように舌打ちすると、無言のままに背を向けた。
「せいぜい囀るがいい。どうせ貴様は駕籠の鳥。我が主がお目覚めになれば、人間の貴様などに太刀打ちは出来まい」
静かに告げて、来た時と同じように空間の狭間を開けて消えていく。
ヒュプノスが去った後、アローンは緊張の糸が途切れたようにがくりと崩れ落ちた。
ヒュプノスの言葉を脳内で繰り返し、それを否定するようにかぶりを振る。
罪を重ねているなど百も承知。だが、同じ言葉をあの神に返したならば、神はどんな顔をしただろうか。
面の皮が厚い? それは一体誰に言っているのだ――――
地上で最も美しい花を贈ったとしても、女神は決して微笑まない。なのに、それこそがまるで自分の使命だとでも言うように、あの双子神は疑わずにいる。
彼女を悲しませてしまうのに、それを“あの方のため”だなんて言うのなら、一体どちらが恥知らずだ――――
end
長編ラストの秘密が双子神にバレたという設定。