006.落ちこぼれ
いつからだろう。
胸の奥底に蜘蛛の巣のように醜い劣等感が巣くい始めたのは。
初めは無意識のうちに、やがてそれは形を以って、徐庶を蝕み始めた。
天才と比較する事から間違っている。
世の中は何もかもが真っ直ぐな線で測れるわけではないのだ。知が駄目なら、武勇で腕を磨けばいい。人の可能線は直線ではなく、多くの点で結ばれる多角形だ。
だから――――べつに、恐れる必要などない。
幾度となく自分に言い聞かせる。俺は俺らしくあればいいのだと、強く諭す。
それでも一部の天才と呼ばれる人の才を羨み、そこに到達できない己への失望。及ばなかった事により、自分の重ねてきた努力がすべて無意味に思えてしまうような虚無感が、いつでも彼の隣りにあった。
微笑を浮かべ、謙虚な振りをしつつも、その心の奥底では醜い妬みや劣等感がいつでも鋭い刃となって自身を傷つけていたのだ――――
「それは気にしても仕方がないでしょう」
徐庶が昔話――――と呼ぶにはいささか気恥ずかしい青臭い話をすると、はけろりとした顔で言い放った。
簡単に言ってくれる。
徐庶は思わず苦笑を漏らす。
それは君が一種の天才だからだよ、と皮肉を言ってやりたくなった。
曹操の抱える楽師の中で、最も篤い寵を受けるのは、彼女が音楽の神に愛されているのではないかと思えるほどの琴の名手であるからである。そのように他人の目を気にせずに凛としていられるのは、が他の楽師よりも飛びぬけた存在であるからだ。
だが、はかぶりを振る。
「違います。私が仕方が無いと言ったのは、貴方が貴方自身を傷つけてしまう事です」
「俺が?」
「悩むなというのは簡単です。でも、そんな事が出来れば、そもそもその人は悩んでなどいません。それをこうすれば簡単だ、と他人が解決策を提示するのは欺瞞です。それで救われる事もあるかもしれないけれど……いえ、救ってなどいませんね。勝手に本人が救いを見出したのです」
「ええと……」
の言葉は抽象的でよく分からない。
はだから、と言葉を切ると、しばし思案顔をしてから徐に顔を徐庶の顔に寄せた。そして、驚いてぽかんとしている徐庶の唇に、ちゅっと自分の唇を押し当てて、神妙な顔で言う。
「こういう事です」
「え、え……と」
「だから。貴方が悩んで自分自身を傷つけてしまう事は、私にはどうする事も出来ません。他の人間では貴方の心に干渉する事は出来ない。でも、勝手をいう事を許されるなら、私はそういう貴方がけっこう好きです。人と自分を比べてしまって、それでもそれを表に出せず、自分を傷つけてしまう優しい貴方が、こうして口付けをしたいくらいには好きなんです」
わかりますか? と涼やかな瞳が徐庶の顔を覗き込んで。
「あ、え……」
「この事で貴方の悩みは解決しないけれど、貴方が少しでも救いに感じてくれたなら……きっと私は嬉しく思うんだと思います」
そして、にこりと微笑んだを前に、徐庶は己の悩みなど思い出す余裕などなく、結論的に彼は勝手に救われたのかもしれなかった。
end
秀才の劣等感。