003.手のひらから
多くのものがこの手のひらをすり抜けていった。
どんなものでも、遠くへ、旧く、寂れ、虚しくなってしまう。
この世に確かなものなど何もないのだから、それは世の必定。自分の身でさえ、条約ひとつ戦火ひとつで危うくなるのに、それよりも脆い人間や、土地や、建物が、どうやってその身を保つことが出来るだろう。
たったの数十年経てばそれは老い、百年経てば歴史に変わる。
史書に記され、知識としてしか残らぬそれらが、いくつもこの手のひらから零れていった。
偉大な人間も、栄華を誇った強国も、時が経てばすべてが幻。空の手のひらを握りしめ、虚しさばかりが胸を満たす。
嗚呼、私は独りなのですね ――――
誰もこの胸の内を知らない。誰も私と同じ時の中に居ない。
映像を早送りで再生するように、私を置いて景色はめまぐるしく変わり、どこまで行っても私は追いつけない。
終わりが欲しいわけでも、国としての存在を否定しているわけではないが、ただ酷く虚しく思う事があるのだ。
私はいつまで、どこまで、こうしていなければならないのか。私の記憶は、意識は、いつまで続くのだろうか。何十年、何百年、これから先も生き続け、未来の私もまだ私なのだろうか。
消える事よりも、在る事を恐れる。
こんな滑稽な話しなど、誰にも出来ないけれど。
「お祖父……様……」
弱々しく伸ばされた手を両手で受け止めると、は包帯で覆われた顔をわずかに綻ばせた。まるで己の最期を看取るのが菊であることを喜ぶかのように。
「申し訳……ござい……ま……」
短い呼吸の中で言葉は千々に千切れ、やがてそれも消えていくのだろう。
幾度か見た光景。自分の身体の一部がこうやって、”国”を守って消えていく光景。彼らは口々に菊より先に逝く不義を詫びる。だがその顔には国を守って死ぬという名誉への歓びが浮かんでいる。自分は国のために生まれ、国のために死ぬのだと、思い込んできた彼らにはこれは何者にも代えがたい名誉の死なのだ。
巫山戯ないでください。
菊は無言のまま胸中で叫び声を上げる。
誰が死ぬことを赦したのです!? 誰がこんな老人を残して勝手に逝くことに名誉など与えるのですか! 勝手な事を! 私がどれだけ貴方を愛し、どれだけ貴方の存在に救われて来たのか理解しているのですか!? 貴方だけはずっと私の側に居てくれると思ったのに! 貴方だけは唯一の私の理解者だと信じていたのに!
どうか私を独りにしないで ――――
言葉には出来ない。
死にゆく者にそんな無慈悲な振る舞いなど出来ない。
だが、溢れる涙は止まらず、はらはらと頬を伝い落ちる。
手の甲に落ちた熱い雫を受けて、はにこりと微笑んだ。どうか、どうかと懇願の言葉を口にし、
「……我が祖国に、栄光を……」
そして、するりと ――――
また手のひらからこぼれ落ちる。
end
達観しなければ国なんてやっていられない。