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摩利支の牢06





「この世にはね不思議なことなど何ひとつないのだよ」
 神主にして陰陽師、本職は古書店「京極堂」の主人である中禅寺秋彦は、至極つまらなそうな顔で云い放った。
 客人――――と云っても、勝手に上がりこんできたのだが――――を前にしていながら、座卓の上に広げた本から顔を上げようともしない。憮然たる態度で、京極堂は珍客の持ち込んできた“奇怪な出来事”を解きにかかった。
「そんなものは只の思い込みにすぎないよ。そもそも不可能だと決めつける根拠が、単に耳ざといという主観的な性質に拠るものしかないじゃないか」
 と、云って、神妙な面持ちで座卓の向かいに座っている益田を見やった。
「いや、だって僕ぁ本当に眠りが浅いんですよう。物音一つすれば、絶対起きちゃう質なんです」
「だから、それがそもそも間違いなのだよ。物音一つで起きるというなら、そもそも音も無くその娘は出て行ったんだろう。ぐうぐう寝息を掻いている君の隣を横切って、普通に探偵社の扉からね」
 そんな事は可能なのだろうか。いや、京極堂が云うならばそうなのだろうが、俄かには信じがたい。毎日踏み鳴らしているあの床の上を、物音も無く移動できるものだろうか。
 和寅がこの場に居たら、それは君の足音が煩いだけなのだとか厭味を云っただろうが、生憎あの給仕兼秘書は先生のお世話があるからとかで、少女の探索を全て益田に押し付け探偵社に戻ったのだった。
 自分の首がかかっているのに、暢気なものだ――――というより、どうせ榎木津はそんな些細な事を覚えてはいない。一時間も経てばすぐ忘れてしまうだろうと、高をくくっているわけで、そういう意味では益田もあまり真面目に調査などするつもりはなかった。
 そもそも、手がかりなど全くない状態で、振袖だけを頼りに何処の誰とも分からない少女を探す事など不可能だ。
 しかし、何もしないのも流石に気が引けて、ついでに娘が消えたトリックが気になって、ご機嫌伺いがてらに京極堂へ立ち寄ったという次第なのである。
「だいたいね、現場も調べず外に飛び出したりして、君たちはどうするつもりだったんだ。調べるなら――――その寝室に在ると云うクローゼットは見たのかい?」
 それなら榎木津が一番に確かめたはずだ。中身を全部引っ掻き出して、居ない! と大騒ぎしていた。
 そう告げると、京極堂は違うよ、と首を横に振った。
「そんな所に隠れる意味がないじゃないか。そうじゃなくて、中に這入って居た物は改めたのかい、と云っているんだ」
「這入って居た物、って………あれ?」
 床には礼服やら軍服やら、良く分からない榎木津の趣味を表す衣服が散乱していた。
 改めるにもその膨大な数の衣類を、一体誰が把握していただろう。当然、持ち主の榎木津がそれを正確に記憶しているはずがない。
 そう、誰もクローゼットの中に、何がどれだけ這入って居たか正しく覚えている者はいないのだ。
「四月の雨は寒いんだろう? だったら尚更、濡れた振袖で外なんか歩けないじゃないか」
 漸く真相に辿り着き、益田はああ、と手を叩いた。
「そうか……、榎木津さんの服を拝借したんですね。だから、音がしなかったんだなあ」
 種を明かしてしまえば単純な話である。
 少女は靴下を含め上下一式の服を身に纏って、探偵社を出たのだ。靴ならかつかつと、裸足ならひたひたと鳴るが、靴下で歩けば音は完全に布に吸収されてしまう。
「下足入れはたしか探偵社の扉の側だろう? だから、靴下で歩いたんだよ。クローゼットに靴は無かったんだ」
 益田はほお、と感嘆の声を上げた。
「いやいやいや、さすがお見事です中禅寺さん! その勢いでその子の行方も突き止めてくださいよ」
 と、どこまでも調子がいい。
 京極堂は呆れたように深い溜息をついた。
「僕が分かるのはここまでだ。寧ろこの先の調査こそ、君の仕事なんじゃないのかね、助手君」
 お給金はもらってませんけどね、と益田が合いの手を入れるようにすかさず返した。
 京極堂に睨まれて、亀のように首をすぼめる。
 とはいえ、ここに居ても埒が明かないことは益田も承知である。少女消失のトリックも解けたことだし、お茶を濁す程度の捜査はするか――――
「では、中禅寺さん。お邪魔しました」
 と、立ち際に首を振る程度の礼をした。
 帰るのかい、と云いつつ主人はもはや顔さえ上げず、来た時と同じように座卓の上に広げた本を凝視していた。
 こうしてこの男は、日がな一日この家に持ち込まれる厄介事や不可思議な事件を、口では文句やら不平を云いつつ、安楽椅子探偵のように解いてしまうのだろう。
 眩暈坂を降りていると、坂の向こうから見知った顔が近づいてきた。
「やぁ、これから京極堂へ?」
「ええ、そちらは……もう済んだんですね」
 と、奇妙な挨拶を交わして、二人は坂の七合目あたりですれ違った。
 僅かによろけた背中を見送って、益田は考えを巡らす。
 さて、今度はどんな厄介事が、あの家にもたらされるのだろうか――――


end


古本屋登場。
困ったらまず京極堂へ。