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摩利支の牢02





「おい、下僕ども! ご主人様のお帰りだぞ!」
 神は破壊音と共に、高らかに己の帰還を告げた。
 ソファの上でつい転寝をしていた和寅こと安和寅吉は、まさに跳ね上がるように飛び起きたのだった。
 寝ぼけ眼で振り返ると、まず目に飛び込んで来たのは半壊した探偵社の扉。上の蝶番は完全にいかれてしまい、扉の役割を果たさなくなったその身体を、ぶらぶらと所在無く揺らしている。
「なっ…!」
「なんだこの軟弱な扉は。その扉は扉失格だ! ちゃんと直しておけッ、和寅」
 思わず言葉を失った和寅の横を、壊した本人である榎木津礼二郎はつかつかと早足で過ぎていった。
 普段、彼の破天荒な行いに慣れている和寅でも、さすがに真夜中に帰って来た主人が、扉を蹴破って戻ってくるとは思わなかったのだ。鍵をかけていたわけではないし、よしんばかけていたとしても、中の“下僕”たちを呼べばいいだけなのだ。
 それすらもせず扉を破壊するとは、外で何か良くない事でもあったのか。
 和寅が恐る恐る主人の背中を振り返ると、予想に反して榎木津の機嫌は上々だった。何が楽しいのか、ふんふんと鼻唄を口ずさんでいる。
 これが酔っ払いの所業なら赦せなくてとも理解はできる。だが、榎木津はまったくの素面だ。仮に酒を食らっていたとしても、アルコォルに呑まれるたちではない。飲んでいても飲んでいなくても、言動は常におかしいのだ。
 いい加減にしてくださいよ、先生――――和寅がため息混じりにぼやいたその瞬間、榎木津の身体越しに白い何かが揺れた。
 はて、あれはなんだろう。和寅は疑問符を浮かべ、じっとそれに見入った。
 ゆらり、ゆらりと左右に触れるそれ。まるで白骨のように白いな、と変な想像を広げていた瞬間、くるりと榎木津が身体を反転させた。がつん、と寝室への扉を蹴り開けたその瞬間、それが和寅にも認識できる形で目に飛び込んできた。
 それは女の足だった。
「なん、なっ、なっ、先生!」
 和寅は呼吸困難の魚のように、目をひん剥いて口をぱくぱくさせた。
 榎木津がおかしそうに笑う。
「はははは、なんだその顔は。まるで出目金みたいだな、この金魚男!」
「なっ、きん、き、き?」
 こうなっては最早何を言っているのか判らない。そうこうしている内に、榎木津はそれを抱えてずんずん部屋の中へ這入って行く。
「うぅん、何ですかあ、こんな夜中に」
 半目をこすって、益田が前髪をかき上げながら起きてきた。主人の帰りを待たず、早々にソファに横になり眠りこけていた薄情な男である。和寅は向かいのソファで榎木津を待ちながら、益田に対して恨み言をぶつぶつと呟いていたのだが、すでにそんな事は忘却の彼方にあった。
 呼吸さえままならぬ和寅の肩越しから、ひょいと益田が首を突き出した。寝ぼけ眼にはそれが何なのか即座には理解できなかっただろう。
 揺れる女の足。白く、ほっそりとした足首。そこから形よい脛、脹脛、膝小僧、そして静脈が浮かびそうなほど透き通った腿へと、視線が紡がれて行く。
「え」
 ようやく理解しかけ、益田は絶句した。
 さらに視線は腿から上へと進もうとしたが、
「見るな、バカオロカ。穢れる」
 と、榎木津の容赦ない目潰しにあった。
 ひぃとかひゃあとか悲鳴を上げた益田の二の舞にならぬよう、和寅は思わず視線を逸らした。何がなんだか判らぬが、どうやら見てはならぬ物らしい。
 見たら潰される、見たらえぐられる。
 あわてて顔を俯かせたが、視界の端に女の指先がちらついた。盗み見るようにその指先を見やると…
 ぽたり。
 指先から滴り落ちた赤い鮮血が、絨毯の上に黒い染みを作った。


end


ようやく榎木津閣下の登場です。