日の前に天あり、摩利支と名づく。
大神通自在の法あり。
常に日の前を行き、日は彼を見ざるも、彼は能く日を見る。
人の能く見るなく、
人の能く知るなく、
人の能く捉うるなく、
人の能く害するなく、
人の能く欺誑するなく、
人の能く縛するなく、
人の能くその財物を債するなく、
人の能く罰することなく、
怨家も能くその便りを得るを畏れず。
(仏説摩利支天菩薩陀羅尼経より)
摩利支の牢
眩暈坂の六合目でいつものように、ふらりとよろけた。徹夜の執筆が祟ったのか、私は目を瞑って眉間をつまんだ。
まだ初夏を迎えたばかりだというのに、まるで真夏のような日差しだ。年中家の中に篭っている私にはその光は健全すぎてむしろ毒だ。
私は坂を上りながら、向かう古書店・京極堂の主人に、来意をどのように伝えようか考えていた。正直に次作の物語の展開に困っているんだ、などと告げれば、門前払いを食らうに違いない。かと云って、世間話で誤魔化せる相手ではないし、嘘は容易く見破られてしまうだろう。
まあ、どうにかなるか――――
京極堂相手に策を弄したところで意味が無い。楽観というより諦観に似た気持ちで私は坂の上の古書店を見上げた。
と、顔を上げると同時に、視界に坂の上から降りてくる小さな人影が入った。
こんな所で他人とすれ違うのは珍しいなと思った。当然、坂の上には町が広がっているのだし、何もこの坂を上るのが自分たちのような度々事件を抱えた京極堂の来訪者ばかりではないと分かっていながら、どうにも違和感を覚えた。
往来で他人とすれ違うというのは苦手だ。目線をどこに向けていいのか分からない。赤の他人なのだから無視すればいいだけなのだが、一瞥くらいするものか、まったく前を見据えて見ないものなのか、自然なすれ違い方が私には分からないのだ。
そして、私はいつも俯いて、恐れる必要の無いものを、おどおどと顔を合わせないようにすれ違うのである。傍から見れば、さぞや滑稽な姿であろう。お前ごときに誰が関心など持つものかと、己の自意識過剰さに胸が悪くなる。
それでも他人を過剰に恐れる私は、顔を俯き加減にして、足先を見つめながら歩いた。人影はすぐ 側まで近づいていた。
「関口様」
え――――?
呼ばれたような気がして、思わず顔を上げた。
目の前には――――目の前には……モノクロの女が、
「あの…大丈夫ですか?」
凛とした声に驚いて、私は顔を上げた。
目の前には半袖のセーラー服を纏った小柄な少女が、心配そうな顔で立っている。
私は、眩暈を起こしたらしく、子供のように地べたにうずくまっていた様だ。
「あ、いや、何でもありません。立ちくらみを起こしたみたいで…」
私は繕うような笑みを浮かべて、立ち上がった。
私は、何を勘違いしたのだろう。
一瞬この少女が、あの人に見えてしまった。白いブラウスだと思ったそれは、セーラー服だし、スカートは黒ではなく濃紺である。髪が長いところは似ているけれど、顔立ちはまったく他人のそれである。
違う、あの人はもう、いないじゃないか。
赤子の鳴き声と共に記憶の中に佇む女は、もう過去の存在だ。
私は心配そうな顔をしている少女に大丈夫だと言って聞かせ、互いに会釈をして背を向けた。
まったく、何をしているのだろう。目線を合わせないどころか、しっかり少女の記憶に己の存在を刻み付けてしまったではないか。
変な男だと思われたに違いない。そう考えていると、あとから顔が赤面してきた。
ふふっ――――
突如、鈴の音のような笑い声が聞こえた気がした。
そして、
「まったく、君は。変わらないなぁ、セキ君」
私は、呆然とした顔で振り返る。
少女はすでにそこには居なかった。
だが、今のは決して、幻聴ではない――――
end
完走できるか分かりませんが、どうぞお付き合いくださいませ。
なお、蛇足ですが関君が見間違えた女性は、言わずと知れたウブメのあの方です。