下世話な話02
「もういや……仕事辞めたい……もういや……仕事辞めたい……」
まるでそれ以外の言葉を忘れてしまったかのように、は酒気で赤くなった顔を飲み屋のカウンターの上に伏せて繰り返した。手には琥珀色の酒が注がれた背の低いグラス。何杯目になるのかロックの梅酒をぐいと仰ぐと、威勢よく飲み屋のおやじにお代りを頼む。
なんだこれは……
カシスオレンジをジュース感覚でストローで吸いながら、白澤は完全に酔っ払ったサラリーマンのようになってしまったに戸惑いを隠しきれなかった。
何かが想像と違う。全体的に違う。つい二時間前、飲み屋街でとばったり顔を合わせた時に想像していた、甘く危険なアフター5とは明らかに違う。
何があったかは知らないが青ざめてふらふらしているを、心配する素振りをしながら飲みに誘ったのは打算あってのことだ。いつもなら白澤の誘いになど乗らないし、そもそもあの職場は年中残業ばかりだし、たまに飲み屋で会っても高確率で常闇の鬼神がついてくるし、そもそも前の一件を未だ覚えていて出会い頭に拳銃で牽制される可能性もあったのだ。
神が与えたもうた好機に白澤は内心ほくそ笑み、悩みがあるなら聞こうか? などと心配する振りをしてを誘った。
最初はそこそこ良い雰囲気だったと思う。雰囲気のあるオシャレな店を選んだし、もまだシラフだった。ぽつりぽつりと仕事の愚痴を恐縮しつつ話すうちに次第に様子が変わっていった。
単に飲むペースが早くなったというわけではない。オシャレなカクテルを頼んだのは最初の二杯、その後ビールへ変わり、焼酎へ。と言ってもオシャレにバーな本格芋焼酎などおいているはずもなく、の案内で二軒目へ移る。そこで焼酎をかぱかぱと空け、白澤に飲み過ぎだと制止されると、デザート頼みますと言って梅酒を飲み始めたのだった。
そりゃ、味は甘いけどさ……
「ちゃんってけっこうお酒強いんだね」
意外な一面を見てしまい、白澤は貼り付けたような笑みを浮かべる。美人と酒は好きだし、ほろ酔いの美人も好きだ。が、べろんべろんに泥酔した美人は微妙なところである。
だが、はぶんぶんと首を振って否定すると、
「強くないですよぉ。弱いから辛い時に飲みたくなっちゃうんです!」
そして、ごくごくとグラスを空ける。
辛い出来事を酒で流すのも悪くはないが、どちらかと言えば白澤は楽しい酒が好きだ。笑って、愉快に酔えた方がいい。涙も愚痴も、酒の肴にするには苦味が強い。
だがはそうではないのだろう。もともと真面目なタイプで、鬼灯のように冷徹に切り捨てていける方でもない。ストレスを溜め込んで、うまく発散出来ず内に溜め込んでしまう。
「お酒に頼っちゃうの、格好わるいですけどね」
酒気の篭ったため息を漏らしながら、は少しだけ苦笑めいた笑みを浮かべた。
かつん、と額をカウンターに押し当てて何度目になる愚痴を零す。
「私……今のお仕事好きですよ? 大変ですけどやりがいも感じてます。でも……いつもいい事ばかりじゃないじゃないですか。煩いお偉いさんもいるし、怖いお局様もいるし、辛いなーって思っちゃうことあるんです」
「そうだね」
「仕事だから傷つきすぎちゃいけないって解ってるんですけど……なんか、そうやって誤魔化すのうまく出来ない事があって」
すべての不満にわざわざ応えている余裕などない。鬼灯のように理屈を盾に切り捨ててやればいい。
だが、鬼灯を手本にするにはあまりに彼は優秀すぎて、一般人であるは冷徹に徹しきれない事がある。いくら心に鎧を着ても、ヒビが入ればそこから痛みは染み渡り、やがて毒のように蔓延する。
「それ誤魔化さなきゃいけないの?」
白澤に問いかけられ、は一瞬きょとんと目を丸くした。
そして、仕方がなさそうな笑みでふにゃりと頬を緩める。
「だって仕事ですもの」
こういう所がきっと自分自身を追い込んでしまっているのかもしれない。
「泣きたかったら泣いてもいいんじゃない?」
「駄目ですよ。職場で……泣いたりなんか出来ない」
「じゃあ、僕の前で泣いたら?」
「あは、それは別の意味で駄目ですよ」
「なら辛い時は僕とこうしてお酒飲もうか?」
「まあそれなら……白澤様が呆れずに付き合ってくださるなら」
「もちろん。ついでに本当に付き合っちゃう?」
「あはは、後が怖いので遠慮します」
そんなやりとりを繰り返しているうちに、いつの間にか時刻は深夜を迎えていた。カウンターに突っ伏したはすうすうと軽やかな寝息を立てている。現世のように終電を心配する必要はないが、の明日の仕事は気にしてやらなければならないだろう。
「おやじさん、お勘定ね」
白澤がカードを伝票の上に乗っけると、へいっと店のおやじが威勢のよい返事をした。今まで沈黙を続けていたおやじが、レジを叩きながらぽつりと言う。
「そのお嬢さんね、いつもうちに泣きに来るんですよ。誰かと一緒に泣きに来るのは初めてですけどね。彼氏さんですか?」
あまりに自然な流れで聞かれたので、だと良かったんだけどねぇ、と素直に応えてしまった。それでも初めてという言葉に白澤は気を良くしてしまう。改めて内装を見回し、洒落っ気はないが良い店だと感じた。
「それじゃごちそーさん」
を担いで暖簾をくぐると、星のない闇夜が広がっていた。平日にも関わらず繁華街は人々のざわめきで満ちており、そこら中に千鳥足のサラリーマンや朧車タクシーの往来があった。
さて、どう帰ったものかと思案していると、暗く沈んだ道の向こうから見慣れた男がやって来た。あまりのタイミングの良さに白澤は呆れ顔を作る。
「さんを迎えに来ました。ここまで運んでくれて助かりましたよ」
「お前ね……」
ずっとそこで張っていたのか、それとも盗聴器でも仕込んでいるのか、ともかくわざわざ迎えに来るくらいならなんでお前が側に居てやらないんだと、恋敵にも関わらず腹が立ってしまった。上司の威厳だか、仕事を他に持ち込まない主義だか知らないが、凹んでいる女の子を慰めもしないなんて男の風上にもおけない。
だが鬼灯は表情を変えぬまま、
「そこはさんの場所ですから。私はそこへ入ってはいけないんです」
明るい提灯を垂らす暖簾口を見やり、呟く。
「よく分からない理屈だな」
「貴方に分かっていただかなくても結構です。それよりそろそろ彼女を渡してください。貴方、ドサクサに紛れて変なことしてないでしょうね?」
ぱしんっと金棒の柄で手の平を叩き鬼灯が凄んだ。礼を言ったのは最初だけ、後はさっさと帰れと言わんばかりの横暴ぶりである。素直に返すのも癪に触るので、せめて駄賃の代わりにと胸の辺りをひと撫ですると、殺意の篭った蹴りが鬼灯から放たれたのだった。
end
短編にしようか迷ったけど、
長編に入れちゃいました。
酔いどれヒロインとたまには大人しい白澤さん、と上司。