ワダツミ04
「もしもし。お前のせいで仕事が山積みだ。今すぐ手伝いに来い」
いつもの慇懃な口調を捨て固い声音の鬼灯から電話がかかって来たのは、それから数日後の事だった。
「あ、あの……白澤様はいま遊びに……いえ、外出されていて……」
代わりに出た桃太郎にちっと舌打を鳴らしてあからさまに不機嫌な態度を取ると、言伝を頼みます、とようやく鬼灯はいつもの口調に戻った。
「貴方のした事は自己満足でしかありませんよ。八つ当たり以外の何物でもない。むしろこっちは割り喰って大変迷惑です。わかったらしばらくそのツラ見せないで下さい、このオ●ニー野郎」
「えっ?」
まさか鬼灯の口から低俗な罵倒が飛び出すとは思わず、受話器の先で桃太郎は固まった。そんな反応を無視して、
「最後のところは大声で言ってやって下さい。それでは」
と、鬼灯は一方的に電話を切った。
机の上には山積みの報告書。どれもこれも、先日の不可思議な天災による被害を報告するものだ。
あの野郎、と胸中で毒づく。
こんな事をしても、それは罰になんかなりはしない。一方的な私怨、怒りをぶつけるだけの駄々っ子の八つ当たりと同じだ。
こんな事をしてが喜ぶはずなどないし、気分が晴れるわけでも、ましてやあの一件が起因する男嫌いが治るわけでもない。
この行為に意味はない。
なのに――――
「どんな尺度で測ったら、これを正当化できると言うんですか」
鬼灯は誰もいない執務室で独りごちた。
「え……白澤様?」
三途の川の上空を飛んでいると、畔で見慣れた白衣の男がひらひらと手を振っているのが見えた。
花町でも飲み屋でもなく、こんな場所に居るなんて珍しい。そんな事を思いながら白澤の元へ向かう。
ばさりと地面に降り立つと、白澤がいつもの笑顔を向けてくる。
「仕事?」
「ええ。先日の天災で三途の川の防波堤が決壊してしまったんです。いま復旧作業中で」
白澤は傍らでテトラポッドを運ぶ鬼たちを一瞥し、さしたる興味もないまま視線をに戻した。
「すごかったらしいね。地獄中大荒れだったってニュースで見たよ」
「ええ。運悪く巻き込まれてしまった亡者さん達は災難でしたね」
とはいえ、すでに死んでいる亡者がそれに巻き込まれて死ぬ事はない。ものすごく痛い思いをするかもしれないが、ボロボロになってもすぐに再生してしまうのだ。
「亡者って完全には居なくならないんだね」
「え?」
不意に呟いた白澤の一言に、はきょとんと目を丸くする。
「こういっちゃなんだけど、地獄で災難に見舞われるって事は天罰なんじゃないの? だいぶ悪い事してきた奴等なんじゃない?」
突然見せた白澤の真面目な顔に、は戸惑いながらもううんと唸り声を上げた。
「まあ……善人だったら確かにこんな所にいませんけど、でも天罰とは違うような……」
「なんで?」
の言葉に白澤が気を悪くしたのだと感じ、の声は徐々に小さくなる。
「え、ええと……因果応報と言いますから。その応報分はすでに閻魔大王様の法廷で決められているんです。だからこれ以上の罰は過剰じゃないかなって……」
じっと見つめられて、は居心地悪そうに視線を泳がせる。
だが、白澤は一拍ほど沈黙すると、
「そう。ちゃんが言うなら、きっと正しいね」
とケロリとした顔で笑った。
その日見たワダツミの夢でも、やはりは海に向かっていた。
帰して、帰して、帰して、帰して――――
どんなに時間が経っても、記憶を失っても、憎い相手が酷い目にあっても、心はそれを忘れない。
自身が忘れてしまったその傷は、癒される事なくずっと涙を流し続ける。
自分自身に忘れられた傷は、誰が癒す事が出来るのだろう。
ざぶざぶ、ざぶざぶ、ざぶざぶ、ざぶざぶ。
群青の海に沈むように、は一心に海を目指す。
涙が波紋を作って細波を呼び、浜辺に打ち上げられて消えていく。それを繰り返しこの海は成っている。
ふと海水が塩辛いのは誰かの涙だからじゃないのかな、と白澤は思った。
潮騒の鳴るこの浜辺ではに声は届かない。引き戻そうと足を踏み入れても拒まれてしまう。
だから――――
「僕は拒んだりしないよ。この海が干上がるまで一緒に居てあげる」
ざぶざぶ、ざぶざぶ、ざぶざぶ、ざぶざぶ。
白衣を海水に浸し、白澤の身体はゆっくりと暗い海に飲み込まれていった。
手をつかんだ瞬間、は驚いた顔で振り返ったが、少しだけ寂しそうに笑ってその手を握り返した。
そして、とぷん――――と。
二人は暗く静かな海の底へと沈んだ。
end
海は深層心理の表れ。
白澤さんなら地獄に天変地異の一つや二つ、軽く起こせちゃうに違いない。
はっきりしない終わり方ですが、これにて『ワダツミ』完結です。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!