ざぶざぶ、ざぶざぶ、ざぶざぶ、ざぶざぶ。
それは細波になって浜へ向かって、容赦なく砂浜の足跡をかき消していく。
まるでこの浜辺を歩いた記憶を、存在ごと消してしまおうとするように。
沖へ向かうほどに衣服が水を吸って身体が重くなった。それでもは懸命に足を前へ出そうとする。
泣いている。
お願い、帰して。私を拒まないで。お願い――――
ワダツミの神に縋り付くように、は群青をたたえる海原へとその身体を沈めていく。
ざぶざぶ、ざぶざぶ、ざぶざぶ、ざぶざぶ。
冷たく、暗く、どこまでも底のない無明の深淵へ落ちていく。
ざぶざぶ、ざぶざぶ、ざぶざぶ、ざぶざぶ。
それを陸から眺めている自分は、懸命に引きとめようと声を限りに叫んだ。だが声は音にならず、ただただ潮騒が鳴るばかり。
ここはいや。ここはもう、いや。こんな事ならいっそ――――
とぷん、と波紋を作りの身体が消えた。
羽衣を揺らし冷たい海の底へ沈んでいく姿は、まるで空へ帰る天女のようだった。
嗚呼――――、と自分の唇から落胆の声が零れ落ち、ようやく潮騒が引いていく。
後には静かな細波を繰り返す沈黙の海があるばかり。
ワダツミ
「お断りします」
と、検討の余地なくきっぱりと答えたのは、閻魔大王の第一補佐官にして白澤とは犬猿の仲である鬼灯だった。
執務室の己の席に座り、開いた書簡に目を向けたまま一瞥すらしない。
コノヤロウ、と胸中で毒づきながらも、ここで食ってかかっては交渉が台無しだ。そこをなんとかさぁ、と神棚でも拝むように白澤はぱんぱんと拍手を打って頭を下げた。
「作法が間違っています。ついでに私にそういったものは要りません」
中国妖怪である白澤にとって、日本の神仏の拝み方など皆同じに見えるのだが、そこはあえて拘らず、だから頼むよと食い下がった。
「一体なんなのですか。あなたに拝まれるなんて気持ちの悪い」
鬼灯が不審げな視線を向けてくる。あの白澤が鬼灯に頼みごとをするのだ。それはよっぽどの理由に違いない――――のだが、だからといって簡単に規律を曲げる鬼灯ではなかった。
「浄玻璃鏡の私的使用は禁じられています」
と、取り付く島もない。
「だからお前にこうして頭を下げてるんじゃないか。僕がこうしてわざわざ桃源郷から足を運んで、頼み込んでるんだぞ。少しは助けてやろうとか思わないの?」
「思いませんね。ついでにその高慢な態度が気に入りません。頼みごとするのなら、手土産くらい持って来い、この白豚」
なんだとっと白澤が食って掛かるのをさえぎり、鬼灯は言葉を続ける。
「そもそも――――曲がりなりにも万物を知る神獣なら、そんなもの必要ないでしょう。全部、貴方の頭の中の知識と同じですよ」
曲がりなりにもは余計だが、鬼灯の指摘はその通りである。白澤はすべての叡智を知り尽くした天界の神獣なのだ。九つの目が世界中のすべてを見ていると言っても過言ではない。
だが、さすがの神獣と言えども記憶というのは曖昧で、何千年も蓄積し続けた記憶はもはやパンク寸前なのだ。当然、古いものから薄れかかっても仕方がない。
それを説明すると、
「ちっ、耄碌ジジイが」
と素敵な舌打ちと共に鬼灯が毒づく。
コイツいつか絞める――――と唇の端から血をぼたぼたと零しながら、白澤が怒りに堪えていると、ちゃりんと目の前で金物の音がした。
「使い終わったら元の場所に戻しておいてくださいよ。それから、くれぐれも見た内容は他言無用です」
プライバシーの侵害ですから、と付け足して鬼灯は赤褐色の鍵を白澤に手渡した。
まさか鬼灯が頼みごとを聞いてくれるとは思わず、ぽかんと呆けた顔をしていると、いらないんですか? と鬼灯は鍵を持った手を引っ込める。
「いる! いるいる!」
「じゃあ、さっさと行ってください。私はこれでも忙しいのです」
と、ひらひらと一方的に手を振って、鬼灯は書簡へと再び視線を戻した。
ただ一言。
「ああ……、あなたもそこまで馬鹿ではないと思いますが、見た内容はさんには黙っていてくださいよ」
白澤が執務室を辞去する前に、そっけない口ぶりでそう告げたのだった。
end
アップしようかどうか悩んでいた長編新シリーズ。
「秘密の秘密」にちょい関係あります。