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 忘我の極地にあった意識がゆっくりと浮かび上がり、虚空を彷徨っていた視線がゆるゆると焦点を結ぶ。
 まどろみの中にあるようなの視線を自分の方へ向けさせ、鬼灯はその顔を覗き込み問いかける。
「私のことが分かりますか?」
 返答はない。
 とろんと眠りに溶けてしまいそうな瞳が、鬼灯の事を見つめ返している。
 鬼灯は構わず説明を続ける。
「ここは閻魔庁。貴方にはこれから裁判を受けてもらいます」
「……」
「生前の罪を裁く裁判です。貴方の行いはすべて地獄の官吏たちの手により記録されています」
「……」
「ここでは罪の数だけ罰を受けなければなりません。何十年になるのか、何百年、何千年になるのか。閻魔大王の審判により、罪に応じた地獄へ落とされるのです」
 の瞳がふよふよと宙を漂う。
 そのまま魂ごとどこかへ行ってしまいそうなを、鬼灯はぎゅっと両肩を掴んで自分の方を向かせ、まるで言い聞かせるような口調で告げた。
 いつかしたり顔で言ってやろうと思っていた言葉を。
 まさかこんな顔で告げる事になるとは思わずに。
「貴方は罪を犯しました」




天帝少女の地獄逝き・秘密の秘密08





「それではお先に失礼しますね」
 は包帯を巻いた手を重ね合わせ、申し訳なさそうな顔でぺこりとお辞儀をした。
 時刻はまだ昼過ぎ。定時には早すぎるが、手を怪我した状態ではろくに筆も握れまいと、無理やり鬼灯がを帰らせたのだ。
 は申し訳なさそうに恐縮しながら帰宅したが、実はほっとしているのは鬼灯の方だった。
 どうにも今日は朝からずっと調子が狂いっぱなしだ。
 あんな夢を見てしまったから――――気持ちが落ち着かない。もう何百年も昔の事だと言うのに今もこんなに鮮明に覚えているのは、きっとあの世でも自分くらいだろうと思う。
 書類に記されたその出来事は、ひどく味気ない、短い説明で終わってしまうのだ。嫌な事件ではあるが決して少ない話でもなく、現代に移ってからはきっと人間たちの起こす凶悪犯罪の方がインパクトが強いに違いない。
 それこそ、人身御供に出された丁という名の少年の死と同じくらいに、稀にあること。
 を殺したのは、彼女が暮らしていた村の人間たちだった。
 顔見知り程度ではあるが、人里から離れるように麓で暮らしていた親子にもともと疑心はあったのかもしれない。だが、その不信感もきっと、平時であれば表面化する事はなかっただろう。
 それが表に出てしまったのは、偶然としか言いようがない。
 未曾有の飢饉に国は荒れ、所々で戦が起こった。民は戦に借り出され、重い税を課せられ、貧しい者から次々に死に絶えた。
 まさに生死の境とも言える困窮の中で誰かが言ったのだろう。
 あのあばら屋に住む親子が怪しい、なぜ食うものもろくに無いのに姿が変わらないのか、と。
 根拠などないのだから、最初は不信感でしかなかったはずだ。だが、疑念が疑念を呼び、人の口を借りる度に噂話は形を変えた。
 人は得体の知れないものを、自分と同じものとは認められない。そして語り草の中で親子は人ではなくなり、飢饉を起こした妖怪の類へと変えられていった。
 あいつらが村を呪っているのだ。だから田畑が干上がるのだ。雨が降らず、蝗がわずかな稲穂を食いつぶしてしまうのだ。
 それでも――――殺そうなどと最初から考えていたわけではない。ただ村から出て行けば、それで解決したはずなのだ。鍬や鋤を手にした農民に家を囲まれた時も、は抵抗などするつもりはなかった。
 少ない荷物をまとめ、は雛を抱えて村を出る事にした。
 行き先はどこでも良かった。ただ静かに暮らしたい、今度はもっと人里から離れた場所で暮らそうとそう思った。
 だが――――かしゃん、と細い金属音が足元で鳴った。
 荷造りを急ぐあまり、ふろしきの端から簪が一つ落ちてしまったのだ。
 それは母である姑獲鳥が持たせてくれた簪。実はが人間であった頃に身につけていた物で、銀細工に大粒の翡翠をはめ込んだ豪華な造りだったが、は装飾品には頓着せず、娘が出来たらその子にあげなさいという母の言葉を守るためだけに持ち続けていた。
 その簪が落ちた。
 何気なく拾い上げようと屈み込んだ次の瞬間、は後頭部に衝撃を覚え、地面に突っ伏した。
 金目のものに目が眩んだ村人たちに襲われたのだと理解したのは、が咄嗟に雛を庇って翼を広げてしまった、その後だった。
 異形の姿を目にした村人たちは、驚愕と恐怖を覚えると共に、心の奥底で安堵した事だろう。
 を殺し簪を奪って良い理由が、生まれたのだから。
 そして、は殺された。
 どのような状態であったか、鬼灯の目にした報告書に詳細はない。だが、が死ぬ前に、雛は死んでしまっていた。それだけで、母が狂うには十分だろう。
 忘却措置を施されたは、現世の記憶をほとんど失っていた。
 なぜ自分が裁かれるのか、その罪さえもおぼろげにしか覚えていないほどだった。
 だが、妙に男に対し恐怖を覚える節があった。死の記憶が関係しているのか――――それは分からない。
 失った記憶を補完するように、は松島での一件が自分の男性恐怖症の発端であると思い込むようになった。
 鬼灯は訂正しなかった。
 にとって鬼灯はもはや見知らぬ他人である。まるで初めから死んでいたように何も持たないのなら、わざわざそれを教え、混乱を招くような事をする必要もない。
 は地獄に落ちた。松島での傷害事件は不起訴となったが、やはり戦場を巡り現世を引っ掻き回した一件は、あやかしと言えど罪にあたると判決が下されたのだ。それでも、刑がそれほど重くないことに、もしかしたら十王のうちの誰かの慈悲が働いたのかもしれない。もしかしたら世界でもっとも愛する者――――我が子を忘れてしまう事こそ、にとって最大の罰となったのではないかと鬼灯は思う。
 鬼灯は静かに立ち上がると、主のいないのデスクに触れ、そっと呟く。
「詰まらない死に方をしたものですね。貴方ともあろう人が」
 あの小生意気な小娘に罪状を高々と掲げ、ひっとらえる事を密かに夢見ていたというのに。
「こんな下らない。下らない連中に殺されるなんて」
 たかだか人間に。戦場を駆けていた頃のならば、最大の興味と共に最大の侮蔑を以って嘲っていたであろう存在に殺されるなんて。
「貴方はもっと悪行を重ねて、悪徳の限りを尽くして地獄に堕ちるのだと思っていました」
 もっと破天荒な極彩色の欲望で、妖怪らしい生を全うしてくれると信じていたのに。
 こんなにも簡単に、命の糸とは途切れてしまうものなのか。
「正直がっかりです。私はずっと貴方をどうやって苛んでやろうかと楽しみに待っていたというのに……」
 罪が罪によって相殺される事などない。の罪と、を殺した者たちの罪は別物だ。たとえどこかでが被害者であったとしても、ある事件については彼女が加害者である事に変わりはない。
 忘却措置と彼女の裁判は別物で、そこには同情の余地などない。
 だが、何故だろうか。――――鬼灯の出会ったあの生意気な姑獲鳥はすでに失われてしまったのだと思うと、鬼灯の胸にはぽっかりとした虚空が生まれる。
 あの馬鹿も、さんが姑獲鳥に奪われてしまった時はこんな気持ちだったんでしょうか――――
 どこぞの薬剤師の事を思いながら鬼灯は小さくかぶりを振り、
「いいえ……。貴方がすべて忘れ去ってしまっても、貴方の罪が消える事はない。死んでも、記憶を失っても、貴方は……」
 誰にも語られない秘密の言葉が、鬼灯の唇から零れ落ちたのだった。




end


なんだか尻切れトンボですが、ようやく完結です!
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
結局、秘密の秘密とは、ヒロインさえ知らない過去のこと。
なお、ヒロインと雛の死については描写はしませんでしたが……、お察しください。