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天帝少女の地獄逝き・秘密の秘密07





 は我が子の事を、この子、あの子と呼ぶだけで名を呼ばなかった。怪訝に思って尋ねた鬼灯に、はけろりと名はないと答える。
 呆れる鬼灯に、は弁解するように姑獲鳥に名前をつける習慣はないのだと言った。そういえば自身も、人間だった頃のと言う名をそのまま母に呼ばれていたのだった。
「そもそも私たちは攫われて来るのですし、名前はすでにあるはずなんです」
 の抱える赤子も、きっと実の両親に名づけられた名があったのだろう。だが、どんな経緯があったか知らぬが、今はその名を呼ぶものはなく、の腕に抱かれている。
「それでも名前がないのは不便でしょう。母を名乗るつもりでいるなら、ちゃんと名前をつけてあげたらどうです?」
 鬼灯の言葉にはふむ、と思案顔になった。
 そして、
「……すうというのはどうでしょう」
「スウ?」
「雛と書いて、すうです。この子、まだまだ雛鳥ですから」
 そしてにこりと微笑む。
 響きが良いと思いかけていた鬼灯は、呆れて溜息をついた。
「それは……子犬の時にちびとか名づけて、大きくなったら後悔する類のものでは?」
「あはは。でも、子の名前は親の願いが込められているものなのでしょう? だから、雛でいいんです」
「それは……」
 いつまでも大人に――――姑獲鳥にならないようにと願いを込めているのだろうか。
 姑獲鳥は攫った女児を自らの子供として養い、姑獲鳥に育てられた子もやがてあやかしに変じる。そして、母と同じように子供を攫い、そうして子孫を残していくのだ。
 自分の翼の下でいつまでも庇護を受ける子供で居て欲しいと、の密かな願いを耳にして、鬼灯は複雑な気持ちになった。
「貴方は」
「え?」
「姑獲鳥になった事を後悔しているのですか?」
 鬼灯の問いにはきょとんと目を丸める。
 かつて一国の頂点に立ち、国の繁栄を願い続けた偽りの皇帝。皇帝という名の幻想に囚われ、自らの命を捧げた娘。生きることも死ぬことも出来ず、人としての自分を失くしてしまった女。
 人間だった頃のに鬼灯は出会っていない。だが、大義という言葉で切り捨てられるほど、の人間としての生は清く美しいものだったのだろうか。未練も、悲しみも、怒りもなく、自分のすべてを否定し永遠に失う事が出来たのだろうか。
 有り得ない――――
 いくらが白澤に選ばれた賢帝だったとしても、それ以前に彼女は人間だった。
 四肢よりも強く結びついた喜怒哀楽を、魂から削ぎ落としてしまえるほど、人はそんなに強くはないのだ。
 だが。
 目の前の姑獲鳥は、慈愛に満ちた顔で微笑む。
 いっそ悲しいほどに優しく。
「後悔も何もないですよ。私は生まれついてのあやかしです。喩え前身が人間だったのだとしても――――私には自覚も記憶もない。それは別の私です。万が一、攫って来たことで母を恨むような事があったとしても、自分への後悔なんて仕様がありません」
 それはまるで、選んで生まれてきたわけではないと、言っているようにも聞こえた。
 はきっと知らないのだろう。確かに知る必要もない情報だ。きっと母である姑獲鳥が教えなかったに違いない。
 人間だった頃のがどういう人物で、実は自ら望んであやかしになった事など知る由もなければ、知ろうとも思わない。
 それは一度終わりを迎えた者の物語。
 今のには、他人より遠い存在なのだ。
「だからこの子が……もし大きくなって自分の存在に疑問を抱くような事があっても、悔いたりしないでいっそ私を恨んで欲しい」
「……」
「子供に恨まれるなんてとても悲しい事だけど……でも、それが世界で唯一許されるのは私だけでしょう? 自分自身の事だけは、恨まないでいて欲しいのです」
 そうして微笑む姿は、鬼灯の知るあどけなかった少女ではなく、見も知らぬ一人の母親だった。
 嗚呼、と鬼灯は小さく呻くように呟く。
 何かが心の奥で、解放される前に消えてしまったような気持ちだった。それが何なのか、理解する事も、名を知る事もないまま、ただ雪解けのように静かに音もなく消えてしまった。
「……そろそろ私は戻ります」
「え? そんな事いわずに、うちに寄って行ってくださいよ。お茶でもお出しします。良かったらお夕飯も」
 すぐ近くですから、と促すの誘いを、鬼灯は丁寧に断った。
「私は貴方と違って忙しいのですよ」
 と。
 去り際に親愛を込めた毒を残して、鬼灯はと雛に背を向けた。
 きっとあと何百年かは、会う事はないだろう――――
 これで戦場に赴くたびに、見知った後姿を捜さなくて済む。
 戦を引っ掻き回される事もないし、予定外の戦死者も増える事はないはずだ。
 前のようにただ仕事に集中していればいい。
 これでようやく本当の意味での平穏が訪れる。
 これでいい、これでいい――――





 だが、鬼灯の予想は思わぬ出来事に容易く裏切られた。
 かの東の国が、未曾有の飢饉に襲われたと知らせの入ったしばらく後――――の魂が、無残な姿で閻魔庁へ運ばれて来たのだった。




end


そして、冒頭の物語へと続きます。