心の中にぽっかりと空いてしまった空洞には、の思い出ばかりが詰まっている。
すぐに忘れるだろうと思っていたそれは、想像以上に長く、そして鮮明なまま、神威の心に居座った。
夜兎らしく振舞っていれば、やがてそんな惰弱な心は忘れると思っていた。だがそれはいつまで経っても埋まることなく、何にも侵されること無く、そこに在り続けた。
記憶はあるのに、本体はそこにはいない。
そのギャップに悩まされ、ワケの分からない苛立ちを覚え、散々まわりに当り散らした挙句、まるで天啓のように阿伏兎の呆れ交じりの声が耳に届いた。
あんたいい加減、と別れた事を悔やみやがれ――――
それを耳にした瞬間、ようやく神威は五年前に感じた心の揺れを思い出した。
がくん、と階段を踏み外したような、戸惑いと共に訪れたそれ――――
その感情に名前をつける事は出来なくとも、神威はそれが自分にとって好ましくなく、激しい喪失感を伴うものだとようやく理解したのだった。
揺れる04
「っていうわけなんだけど」
「うん。全然わかんないよ」
神威の適当な説明を受けても尚、は米神を押さえる指を下ろせずにいた。
つまり、神威の言い分を要約するなら、五年間ずっとの事を忘れられなかった。今になってようやくと別れたことに後悔を覚えた。で、やっぱり自分にはが要るから迎えに来た、と。
「……あのさ、だいぶめちゃくちゃなコト言ってない?」
「そう?」
「別れて二ヵ月後とかならともかくさ」
「あり、駄目だった?」
この自分がずれていることに今気づいたとでも言わん表情は、どうしたものだろう。駄目と言うか――――普通の男なら五年前の恋人の家を突如訪れて、よりを戻そうなどとは言い出さないと思う。連絡を取っていたわけでもなく、いっさい音信不通の状態で。しかもには子供がいると知っていながら、その主張を曲げないあたりが神威らしいというか何というか。
「一応聞くけど、私が結婚してるとかそういうこと考えないの?」
「考えてはいるよ。でも何か問題があるかい?」
「ありまくりだって……」
はぁっとは深いため息をついた。これじゃあ不倫どころか誘拐だ。
「旦那がいても関係ないよ。俺はを腕付くでも連れてくって決めてるし、止めたいなら立ち向かってくればいいよ」
「ねぇ……私が抵抗するとか、断るとか考えないわけ?」
「言っただろ。腕付くでも連れてくって。それに本当はの旦那とか言うだけで、ハラワタが煮えくり返るんだよ? でも別れたのは俺が言い出したコトだし、それは不問にしてやるよ」
どうやら一切、の意向を聞くつもりは無いようだ。逡巡の期間が長かっただけに、決定は絶対に覆されないらしい。
「で、旦那はどこのどいつ?」
にこにこと殺人的な笑みを浮かべながら殺る準備を整えた神威に、ああ、もう、分かったってば、とは小首を振った。
「夫はいない。結婚してないんだって。だから物騒な事は地球でしないで」
「じゃあ、俺にとっては好都合だね。まぁ、ガキは多目に見て連れてきてもいいよ。出るなら早い方がいいけど、準備にどれくらいかかる?」
「ちょっ、待ってってば! まだ私、賛成してないよ! それに……」
そこでは言葉を区切った。逡巡しながら視線がちゃぶ台の木目の上を行ったり来たりする。
「別れた時のこと?」
「うん……。理由を聞かなかったの、本当は後悔してた。私は神威が私を必要としなくなった時点で、あそこにいるべきじゃないって思った。でもやっぱり……ちゃんと神威の口から理由を聞きたかったよ」
「それは……俺がと家族になるのが怖かったんだよ」
思わぬ返答に、はきょとんと目を丸めた。
「は信じないかもしれないけど、俺は君のこと大好きだったよ? 今も好きだし、ずっと一緒にいたい。でもあの時の俺は、ずっと一緒にいることの意味を深く考えすぎてしまった。そのうち俺達の間にガキが生まれて、家族になっていくのかと思ったら――――なんか、途端に自分が物凄く弱くなってしまうような気がした」
きっとかつて己が捨てた家族のことを思い出しているのだろう、神威の空色の瞳がすっと細まる。
最愛の人間よりも強さを選んだことが神威らしく感じた。強さを求めるあまり弱い、そんな心の脆さを垣間見てしまったような気持ちだ。
だが、にはそんな自分勝手な理由で別れを切り出したことへの憤りはなく、むしろへの不満やほかの女の存在を否定できただけで、心が少し落ち着いた。求められていなかったわけなない。その事が神威に必要とされる事だけが春雨にいる理由だったにとって、救いの言葉である事は確かだった。
とはいえ、それはすべて過去の話。
今、は別の理由のために、ここにいるのだ――――
「……今はもう怖くないの?」
「家族になること? まぁ、ジレンマはあるけど。でも、に子供がいるって知って、吹っ切れたかな。は俺の恋人で、ガキはおまけみたいに考えればいいし」
「勝手な話しだね」
呟きつつ、その壮大な我侭にはしれず苦笑を浮かべていた。
と、その瞬間、
「帰れ、このミイラ男!」
がらりと玄関前の襖が開いたかと思うと、外へ向かったはずの男の子が飛び出し、神威に向かって何かをぶつけた。神威が飛来してきたそれを宙でキャッチすると、それはつやつやと輝くドングリだった。
どうやらこれを外に取りに行って、こっそり戻って聞き耳を立てていたらしい。
「こら!」
すぐにが子供の手を取り押さえ、男の子の両手からドングリが零れ落ちたが、神威に向けられた敵意に満ちた目と言葉は止まらなかった。
「マミーは誰ともケッコンしないんだぞ! 銀さんがぷろぽーずしても、真選組がぷろぽーずしても、ヤダって言ったんだ!」
「ちょっ、なに言って」
「マミーはずっと、パピーがプロポーズしてくれるの待ってるんだから! だから、お前なんて帰れ! 帰れ! 帰れー!」
散々わめいた挙句、最後には泣き出してしまった我が子を前に、ああ、もう、とはため息をついた。
「どういうこと?」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をの胸に埋める男の子を眺めながら、神威が目を細めて問いかける。
「そのガキ……そいつの子供なの? そいつのコト、そんなに好き? だから、俺の誘いは聞けないってこと?」
「神威、ちょっと待って」
「待たないよ。ガキもそいつも放っておくつもりだったけど、の未練になるくらいなら……」
「待ってってば!」
すっと神威が手刀を構えたのを確認し、は我が子を守るように身を乗り出した。
「この子に手を出したら、私はあなたを絶対に許さない。それから……何か勘違いしてるみたいだけど……」
が言葉に詰まった瞬間、の背後から泣きじゃくった顔が飛び出して叫んだ。
「マミーに何かしたらカムイが許さないぞ! パピーは誰よりも、宇宙で一番強いんだからな!」
「……え?」
きょとんと目を丸めた神威に向けて、は深いため息をつく。
「だから……わからない? ソックリでしょ?」
end
神威だいぶめちゃくちゃなコトいってます。
そして、ありがち展開。