夜兎なのだからその痕は一両日もすれば消えてしまうのだが、すぐに新しい痕がその背を覆う事になる。
暴力さえ愛情の一部としか認識しない神威にとって、それはまさしく愛の証でしかなく、むしろそうしてを支配している感覚を楽しんでいる様子すらあった。
だがある日、その傷跡の中に掻き毟るような爪痕が、の自傷行為が含まれるのを知り、神威は胸の奥がすっと冷えていくのを感じた。
優しくするから−
相談という名の一方的な惚気話を受けて、阿伏兎は内心知らねぇよと毒づいた。
彼の上司が言うにはこうである。
自分はがすごく好きすぎて可愛くて愛おしくて、ついつい抑えが利かなくなって無理やり事に運んだり、傷つけてしまうのだそうだ。だが、そうする事に悪意など欠片もなく、の事は愛しているし大切だしベタ惚れだし以下エンドレス――――とにかく、が自傷行為に走る理由がまったく分からないというのである。
「なんなんだろう。何か病気とかじゃないか心配だなぁ」
と、眉根をひそめて悩む姿は冗談のようには見えない。
そうだ。この男は色んな意味でズレまくっているのだ。
その事を丸々一拍かけて思い出し、阿伏兎は深くため息をついた。
「ストレスだろ」
簡潔に返って来た答えに、神威はぱちりと丸めた瞳を瞬いた。
「ストレス? 何の?」
「だから……」
はぁっと再びため息をついて、阿伏兎は目の前で怪訝そうな表情をしている当人に指先を突きつける。
「あんたが、その……構いすぎるから」
「ヤりすぎたってこと?」
ざっくりそのままの表現で返されて、阿伏兎は渋い顔を作りながら頷いた。
だが、神威は眉間に皺を刻んで腕を組んで考え込む。
「なんで? 俺、すっごく愛してるよ?」
「だから、その……」
「ちゃんと満足させたげるし、昨日だって、」
「だーー! 俺の話を聞けっ!」
上司の夜の話など聞かされてたまるかと、阿伏兎は半ばやけになって神威の言葉を遮った。口を挟まれて神威は不満げな顔をしているが、そういうにぶい所がすべての元凶だというのを分かっていない。
「あのな。そもそもの話だが、アンタのオンナは何モンだ?」
「は?」
「だから。もともとはアンタを殺しに来た殺し屋だろーが」
ああ、そうだったっけ、と今思い出したかのような顔で返す。
――――まったく自分の都合のいい事しか覚えていないのか、このトリ頭は。
神威はすっかり忘れてしまっていたが、そういう経緯でやって来た暗殺者を神威が気に入って一方的に自分の恋人にしてしまったのだ。
とは言え、とて素直に従うはずもなく、また神威もこういう性格であるため、暴れるを無理やり組み伏せるという恋人の始まりにはだいぶ乱暴な行為が繰り返されたのだ。そのうちが根負けしたのか、拷問――――と、にとっては言うべきだろう――――に耐えられなくなったのか、やがて抵抗はなくなった。
それを神威は自分のアプローチが受け入れられ、晴れて恋人同士になった……と勘違いしているが、実は単なる隷属関係が出来上がったに過ぎない。
その事実を、浮かれきった神威がすべて無視して来ただけだ。
話し終えると、神威は最高に不機嫌な顔をしていた。
「俺たちの仲を疑うの?」
と、殺気さえ湛えた顔で凄んで来たが、残念ながらこれが真実なのだから仕方がない。
「好きでもない奴に一方的に暴力振るわれたら、そりゃストレスでおかしくもなるだろ」
「暴力……?」
神威の見開いた瞳がゆらゆらと揺れた。
一瞬、思考を停止して。
その言葉こそ――――暴力じゃないか。
思いのほか衝撃を受けてしまった神威を前に、阿伏兎はかすかに罪悪感を感じる。かりかりと米神を掻きながら、
「ま、俺は別に構わんと思うけどな。どうあれ、あいつぁアンタの捕まえた獲物である事に変わりはないんだ。それをどう扱おうが、なんて呼ぼうがアンタの自由」
それを理解しているからこそ、は何も言わず黙って神威に従っているのだろう。
ただ独り――――神威だけがそれを知らなかった。
それは愛なんかじゃないんだよ、と。
自分の与えてきた全てが、愛する者を蝕む行為でしかなかった事に。
「……ふざけるな」
ぽつりと呟くと、神威すぐさま踵を返した。
「おい、どこに行く? 止せよ、あの女に文句言ったって……」
「うるさい!」
神威は自動ドアが緩慢に開くのさえ待たず、開きかけた隙間を蹴り飛ばして穴を穿つと、かつかつと大またでの部屋へ向かった。
頭が沸騰しそうなほど、苛々する。未だかつて感じたことがないような怒りが、腹の中で膨れ上がって爆発しそうだ。
執務室のドアと同じように、の部屋のドアも大破して中に入ると、部屋の中央で驚きに目を大きく見開いているがいた。
「……」
愛しい少女の姿に自然と顔が綻ぶ。声音も優しくなる。
腹の中をのた打ち回っていた怒りが、ゆっくりと萎んでいく。
ああ、やっぱり嘘だ。そんな事があるはずない。だって、は俺の恋人で俺たちは十分愛し合っていて、それで――――
「ひっ」
だが、伸ばされた神威の指先はの柔らかな頬ではなく、虚空を掠めた。
「どうして……」
見開いた神威の視界の中で、はゆっくりと後ずさる。
その両肩はカタカタと震えて――――
瞬間、神威はの身体をベッドの上に突き飛ばしていた。
「どうして? こんなに好きなのに? こんなに愛しているのに?」
馬なりになり、服を裂いて、ベッドの上に押し付ける。
変わらない行為だ。今までと変わらない愛撫。
だと言うのに、組み伏されたはやだやだと腕を突っぱねて、向けられた神威の口付けを拒もうとする。
なんだこれは……わけが分からない。
どうしては自分を拒むのだ。何故、脅えたような顔を向ける。
肌の露出した肩口に神威は己の歯をつきたてた。うっと小さな呻き声を上げて、が痛みに両目を瞑る。
悲鳴は消えた。だが、その代わりに閉じた双眸から透明な涙が、つうっと頬を伝って流れる。
なんでそんな事するんだよ。どうして嫌がるんだよ。どうしていつもみたいに――――いつも、みたいに?
「……また、痛いコトされたいの?」
唇をひしゃげて嗜虐的な笑みを浮かべた自分の口から、そんな思いがけない言葉が零れ落ちた。
「お前は俺のオンナだろ?」
耳元で囁いた言葉は、甘やかしい口説などではなくただの脅迫でしかなく。
「ねえ……愛してるよね?」
妖しく笑んだ神威に向けられたのは、涙でぐしゃぐしゃになったいたいけな少女の顔でしかなかった。
はカチカチと震える歯を噛み締めながら、くぐもった声で答えた。
涙で濡れた顔を両手で覆うようにして、
「お願い……もう、ゆるして……」
end
−(マイナス)という事で、前作と前の話です。
神威兄ちゃんに余裕がなくてすみません。
ただの我侭ボーイになっちまったよ。